PHOTO:SHINTO TAKESHI
第22回 物を書く才能というものがないのだとしても
本のことで話しかけてくる客やホステスなんてひとりもいなかったから、その若い男の客に何を読んでいるのかと訊かれたとき、わたしは驚いて思わず本を隠してしまった。顔色が悪く、びっくりするほど細い体をしたその男は、たまにはこっち来はったらあ、なんてホステスたちに話しかけられても、どこかびくびくした様子で小さく笑うだけだった。
カウンターのなかにいるわたしともほとんど話すことはなかったけれど、何が楽しいのか、あるいは楽しくないのか、そのあとも男はときどきやって来ては決まった席にひっそりと座り、いつもおなじ、飲み放題のウイスキーをおとなしく飲んで、一時間ほどすると帰っていった。
一度、何の仕事をしているのかと訊いたことがある。男はそれにはなんとなく答えないで、風に震えるようなかすれた声で、何年かまえに自分は沖縄のむこうにある波照間島というところで肉体労働をしていたことがあると言った。島には電灯が少なくて、夜には海も空も地面も人もなんもみえんようになる、音しかしやんくなる、と男は小さな声でゆっくり話した。
そして島にはいろんなものをのせた船が定期的にやってくるのだけど、暗い海のむこうに船の光をみつけるや否や、男たちが叫び声をあげて波を蹴ちらし、海に飛びこんでいくのだと話した。**さんも(そのときはきっと名前を呼んだはずだ)飛びこみはったん、と訊いたら、海が怖くていつも動けなかったと答えた。しばらくそこで働いていたけれど、ちょっとしたことの積み重ねで労働者仲間に疎まれるようになり、最後は追いだされるようにして島を出たのだと言った。
つぎに来たとき、男は中古の文庫本をめいっぱいに入れて、あちこちがぼこぼこに膨らんだ真っ白なトートバッグを抱えてやってきた。カラオケの音量にさえよろめいてしまいそうな細い体に、文庫本がぎっしりつめられた真新しいトートバッグはまるで斎場帰りの遺族が抱える桐箱みたいにみえた。
そしてやっぱりほとんど聞きとれないような小さな声で、これよかったら、と言って置いて帰った。いくつかの本には小さな文字の書きこみがあったり、ラインが引かれたりしていた。どれも目を凝らさなければ判別できないくらいの薄い文字だった。聞こえてくるのは波の音だけ。ほとんど光のない真っ暗な夜。わたしは男が本に顔を近づけ、忘れたくない文章に鉛筆で線を引くところを思い浮かべた。
ともあれ、大量の本が一気に自分のものになることがわたしはすごくうれしかった。お礼にマグカップを買ってつぎに男が来たときに渡そうと待っていたけれど、それ以来、男は店に来なくなった。マグカップは包装されたまま長いこと店の棚のなかにしまわれていたけれど、あれはどこにいったんだろう。
「しかし茶色いな、そこは昔ので、いまの一軍はうえのほう。ああ、埃が」
わたしは文庫本の背表紙をじっとみている緑子の隣に移動し、サルトルの『水いらず』を手にとってページをめくった。物語の筋は思いだせないけれど、たしか銃殺をめぐるすれ違いの短い話が入っていたはずで、男たちが何にもない広っぱにだらりとならばされているシーンが頭に浮かぶ。いや、でもそれは銃殺というイメージからわたしが勝手に思い浮かべているだけで、じっさいにはそんなシーンはなかったのかもしれないなと思い直した。
どうやったっけ。わからない。覚えてるのは、笑って笑って笑いこけた、という誰かの最後の台詞だったか文章で、ぱらぱらとページをくって確認すると、もう十年以上もひらいていないページの片隅に変わらずに印刷されていた。しばらく眺めてからもとの場所に戻し、そして緑子も本が好きだと巻子が言っていたことを思いだし、読みたいのあったらもって帰ってええよと言ってみた。緑子はクッションに背中と後頭部をつけたまま器用に足と腰でくるりと体を回転させ、反対側の棚に顔を近づけた。
「緑子、夏は、小説書いてるねんで」
巻子が空になった缶の腹をへこませながら言った。すると緑子は顔をさっとこちらにむけ、あきらかに関心をもったようにまぶたをぴくりとひきあげた。巻子はまたいらんことを、と思うのと同時にわたしは、いやいやいやいや、と巻子の言葉に言葉をかぶせた。
「書いてない書いてない」
「なんでや、書いてるやんか」
「いや、書いてるけど書いてない、というより、書けてないっていうか」
「なんでや、がんばってるやないの」巻子は唇を少し尖らせ、どこか誇らしげな表情をして緑子のほうをみて言った。「緑子、夏はすごいんやで」
「や、すごない」わたしは少し苛だちを感じて言った。「すごいわけないやん。書いてるのはまだ、なんていうの、趣味やのに」
そういうもんかなあ、と巻子は首をかしげて笑ってみせた。巻子にとっては何の問題もない普通の話をしただけなのに、それにたいして言いかたが少し強くなってしまったかもしれないと思った。そして、それと同時にわたしは自分で使った趣味という言葉に後味の悪さのようなものを感じていた。傷ついたと言ってもいいかもしれなかった。
たしかに自分の書いているものが小説といえるのかどうかも覚束ない。それは本当だった。でもそれと同時に自分は、やっぱり小説を書いているのだという気持ちもあった。それは強い気持ちだった。はたからみれば何の意味もないことかもしれない。
いつまでやっても誰にも何の意味ももたらさない行為なのかもしれない。でも、わたしだけはわたしのやっていることに、その言葉を使うべきじゃなかったのではないだろうか。とりかえしのつかないことを口にしてしまったような気持ちになった。
小説を書くのは楽しい。いや、楽しいというのとは違う。そんな話じゃないと思う。これが自分の一生の仕事なんだと思っている。わたしにはこれしかないのだと強く思う気持ちがある。もし自分に物を書く才能というものがないのだとしても、誰にも求められることがないのだとしても、そう思うことをわたしはどうしてもやめることができないでいる。
運と努力と才能が、ときとして見わけがつかないものであることもわかっている。それに結局のところ——この何でもないちっぽけな自分がただ生きて死んでいくだけの出来事にすぎないのだから、小説を書こうが書くまいが、認められようが認められまいが、本当のところは何も大したことではないのだということもわかっている。
こんなに無数に本が存在する世界にたった一冊、たった一冊——自分の署名のついた本を差しだすことがたとえできなくても、それは悲しむことでも悔しく思うことでもないのだと。それはわかっているつもりなのだ。
でも、そこでいつも、巻子と緑子の顔が浮かんでくる。洗濯物がぐちゃぐちゃに積みあがったアパートの部屋、いつか巻子が背負っていたものなのか緑子のものなのか、あるいはわたしのものだったのか、色あせた合皮の赤いランドセルに入った無数の横皺が浮かんでくる。
暗い玄関に湿気をたっぷり吸いこんでくたくたになった運動靴、コミばあの顔、一緒に掛け算を覚えたこと、米がなくてコミばあと巻子と母と四人で小麦粉と水をこねて団子を作ってそれをぐらぐら茹でたこと——何が楽しかったのか、それらを大笑いしながら食べたときのことが頭に浮かんでくるのだ。西瓜の種のちらばった新聞紙がにじんでいるのだ。
コミばあのビル掃除について行った夏の日のことを、みんなで小さなビニル袋につめた内職の試供品のシャンプーのにおいを、ひんやりした青い影の温度を、いつまでも帰ってこない母を不安に思ったことを、そして工場の制服を着た母が笑顔で帰ってきたときの、あの気持ちを思いだしてしまうのだ。
こんなふうにつぎつぎにやってくるものと、わたしが小説を書きたいと思うことにどんな関係があるのかはわからない。わたしが書きたいと思う小説とわたしのこうした感傷は遠くにあるもののはずなのに、もう駄目かもしれない、わたしには文章なんて書けないのだと思うとき、いつも頭に浮かんでくるのだ。
もしかしたら、こんなことを思いだすようなわたしだからいつまでたっても駄目なのかもしれない。わからない。でも、そのわからなさよりも、コミばあもいなくなって、母もいなくなって、巻子と緑子のふたりを残して東京までやってきたわたしが十年たっても何も結果を出せないでいること、ふたりの暮らしをちっとも楽にさせてやれないことを思うと、どうしようもなく胸が痛む。
そんな自分が恥ずかしいし情けないし、本当のことを言えば、怖くて、どうしていいのかがわからなくなる。
お知らせ
パートナーなしの妊娠、出産を目指す夏子のまえに現れた、精子提供で生まれ「父の顔」を知らない逢沢潤——生命の意味をめぐる真摯な問いを、切ない詩情と泣き笑いに満ちた極上の筆致で描く、21世紀の世界文学。『夏物語』発売を記念して、7月26日18時半から、ジュンク堂池袋本店にて、サイン会が開催されます(こちらから)。