PHOTO:SHINTO TAKESHI
第20回 夜の姉妹のながいおしゃべり
部屋に帰ると、巻子はなにごともなかったかのように明るくふるまうので、わたしもそれにあわせて大げさに笑って受け答えをした。ちらちらと緑子のほうを見やると、自分のリュックの横に脚を三角に折って座り、まるめた膝のうえに会話用に使う小ノートとはべつのひとまわり大きなノートをのせて、小刻みにペンを走らせている。
「夏子と飲むんなんか久しぶりやな」と巻子は言いながら、帰り道にコンビニに寄って買いこんだビールを冷蔵庫から数本とりだし、ちゃぶ台のうえにならべていった。飲も飲も、とわたしも言いながら柿ピーやらジャッキーカルパスなどのあてをざらっと皿にあけ、昼間は麦茶を入れていたガラスコップをさっと洗ってビールを注ごうとしたときに、きんこん、という耳慣れないベルの音が鳴った。
「これ、うち?」わたしたちはさっと顔を見あわせた。
「え、わからん、いまベル鳴ったよな」とわたし。
「鳴った」
そうするとまた、きんこん、という音がして、それはたしかにこの部屋のものであるようだった。時計を見ると午後八時過ぎ。時間はともあれ、誰かがここを訪ねてくることなんてほとんどない。自分の部屋にいるだけで後ろめたいことなどひとつもないのに、わたしは反射的に気配を消し、足音がたたないようにそろそろと歩いて台所をぬけ、息を止めたまま覗き穴から廊下を見た。
魚眼レンズが淡い緑色に黴びているせいでその姿ははっきりは見えなかったけれど、そこにいるのは女性のようだった。とっさに居留守を使おうかとも考えたけれど、こんな薄いドア一枚、テレビの音もわたしたちの声も漏れているに決まっている。わたしはあきらめて、はい、と小さな声で返事をした。
「遅くにすみませんけど」
ドアを細くあけて覗くと、女の人の顔がみえた。ふつうのパーマというよりはゆるめのパンチパーマという感じのヘアスタイルで、額がぜんぶ見えていた。五十代か六十代かのおばさんで、茶色のペンシルで描かれた眉は、じっさいの眉毛から数センチうえにずれていた。暗くても色落ちしているのがわかる膝のぬけたスウェットを穿き、足もとはビーチサンダルというかっこう。
いっぽうティーシャツはおろしたてみたいに真っ白で、ウインクでハートを飛ばすスヌーピーの絵が大きくプリントされてある。吹きだしには英語で「僕は完璧じゃない、でもきみと一緒なら完璧」と書かれてあった。なんでしょう、とわたしが尋ねるまえに、遅くにごめんなさいだけどね、とおばさんが切りだした。
「お家賃のことで」
「あっ」わたしは短く声をだした。そして部屋のなかをさっとふりかえり、ちょっとすみませんと小声で言って廊下に出て後ろ手で玄関のドアを閉めた。
「はいはいはい」
「あ、いまお客さんいたの」おばさんは部屋のなかを気にするようなそぶりをみせながら言った。
「親戚がちょっと」
「そんなときに悪いんだけれど、電話してもほら、出てくれないから」
「出られなくてすみません、タイミングが」謝りながら、そういえばこの数日、何度か非通知着信があったことを思いだした。
「で、今月分がないと、三ヶ月になってしまうから、滞納が」
「はい」
「いま、一ヶ月分でももらえると助かるんだけれど」
「それはちょっと、あのかなり無理でして、でも今月末にはちゃんとお振込みできます予定です」とわたしは早口で答えた。「で、あの失礼ですが、あの、大家さんの……」
「わたし? そうそう」
アパートの一階部分のむかって右奥、わたしの斜め下に大家の部屋があった。大家は男性で、無口で穏やかな印象で、ここに住み始めてからの十年、まともに話したことがない。過去にも家賃を滞納したことは何度かあるけれど催促されたことはなく、わたしはいつも胸のなかでそっと手をあわせているところがあった。年齢は六十代後半くらいだろうか。
矯正具でもつけているのかと思うくらいに背すじをぽんと伸ばしきって自転車に乗る姿が印象的だ。大家以外の人の出入りをこれまでみたことはなかったし、とくに理由はないけれど、ずっと独身で生きてきた人なんじゃないかと何となく思っていた。
「これまではけっこう融通をね、きかせた感じでお願いしてたと思うけど」おばさんは、うっうんと大きく咳払いしてから言った。「うちもけっこう厳しくなってきてね、お願いだけど、遅れないように頼みますわ」
「すみません」
「じゃ、月末って思っていてだいじょうぶってことで?」
「はい。だいじょうぶです」
「じゃ、こうして会ったから。これを約束としてね、お願いしますね」
頭を下げながらごんごんと鉄の階段を降りてゆくおばさんの足音が聞こえなくなるまで待って、部屋に戻った。ビールつぐで、だいじょうぶ? と巻子が言いながら、誰やったん? と目で訊いてくる。
「大家さん」
「あー」巻子はコップにビールを注ぎながら笑った。「家賃や」
「そうそう」わたしはわざと変な表情でへらへらしながら、かんぱーいと言ってビールをひとくち飲んだ。
「どれくらい溜まってるん」
「えーと二ヶ月くらいかな」
「はー、けっこう厳しいな、取り立て」ひとくちで半分を飲んでしまった巻子はビールをつぎ足しながら言った。
「いんや、こんなん初めて。滞納したことはちょいちょいあったけど、こんな家に来はるんとか初めてでびっくりした。いつもはおっちゃんで、おとなしい人でさ、あのおばちゃん、誰やねやろな」
「おばちゃんやったん」
「パンチパーマで眉毛ずれてた」
「より戻したとかそんなんちゃう」と巻子は言った。「うちも最近、そういうのあったわ。お客さん。六十とかそんなん。子どもはひとりで息子さんやねんけど、その子が小学校あがってすぐぐらいのときに母親っていうか嫁さんがべつの男と出ていって、ずっと離れて暮らしててんな、二十年くらい。連絡は取りあってたみたいやけど、まあ別居っていうか、好きにしてたんやな。
それが子どももまあ成人して、嫁はんのほうも齢とったかなんかわからんけどひとりになって。おっさんのほうは自分の両親と暮らしててんけど、一緒に住んでるおじいもおばあもボケてきてて、なんかわからんけど、嫁はんがまたその家に戻って一緒に住むことになってんやて。二十年くらいおらんかった嫁はんが」
「ほお」
「まあおっさんは家はあるやん。それこそ家賃はいらんし、親の年金はびびたるもんやけどまあ月に数万は入ってくるし、仕事は水道工事でまあ安定はしてるみたいやし。で、行くとこなくて帰ってきたいオーラがんがんに出してる嫁はんに、『家のことはもちろんやけど自分の親が死ぬまでちゃんと面倒みれるんやったら帰ってこいや』って条件だしたんやって。『下の世話もボケの始末も何もかもな』って」
「おっちゃんやりよんな」
「やりよる」巻子は歯をちゅっと鳴らして言った。「おっさんと息子はええわな。だって自分らラクになるもんな。お金もかけんで住みこみの家政婦と介護ゲットしたようなもんや」
「でも子どもも小さいときに捨てられたみたいな複雑な気持ちもあるやろで。そういうんって水に流せるもんなんかな。っていうかその奥さん仕事はしてなかったん」
「してないやろ。稼ぎあったら誰が戻るんな」
「でも出戻りのおかんが病気になって、何もできひんくなる可能性とかも普通にあるやん」
「ある」
「そうなったらどうするんやろな、出ていけとは言えんやろし」
「そこまで考えてへんのんちゃう。女は死ぬまで元気で働けると思ってるし、下の世話とか得意やろくらいに思ってんねやろ。っていうか」巻子はビールを飲んで言った。「ここって家賃なんぼなん?」
「四万三千円。水道費もぜんぶこみで」
「するよなあ、ひとりでもなあ、東京やもんなあ」
「駅から十分ちょっとで、まあこんな感じかなあ。もうちょっと安かったら助かるけど」
「うちはあの部屋、五万ちょうど」巻子は小鼻を膨らませて言った。「さすがに最近は遅れるんはないけど、やばいときあるわ。来年、緑子中学あがるし、出費あるわ」
お知らせ
パートナーなしの妊娠、出産を目指す夏子のまえに現れた、精子提供で生まれ「父の顔」を知らない逢沢潤——生命の意味をめぐる真摯な問いを、切ない詩情と泣き笑いに満ちた極上の筆致で描く、21世紀の世界文学。『夏物語』発売を記念して、7月26日18時半から、ジュンク堂池袋本店にて、サイン会が開催されます(こちらから)。