夏物語 第一部

お母さんが生まれてきたんは、おかあさんの責任じゃない 

巻子と緑子とやってきたさびれた中華料理屋でスナック時代の知り合いの思い出に目が熱くなるわたし。テレビの雑音に、三人の咀嚼の音、水を飲む音、食器を打つ音などが混じって賑やかな感じになった――。芥川賞受賞作『乳と卵』の登場人物たちが、あらたに織りなす大長編『夏物語』、絶賛発売中! この物語には、人が生まれて生きて、そしていなくなることの、すべてがある。(平日毎日更新)


PHOTO:SHINTO TAKESHI

第19回 お母さんが生まれてきたんは、おかあさんの責任じゃない

 巻子は料理をもってきたおばさんに大阪から来ましたんやと話しかけ、おばさんもそれにつきあって大阪にどこどこあるでしょ、なんて言って答えてくれて話は弾み、緑子もさっきは手をつけていなかった餃子をとり、口を大きく動かしている。これおいしい、そっちもいける、などとわたしと巻子は言いあって、巻子もビールのお代わりを頼んだ。

 わたしの冗談に緑子が少しだけ笑ったので、なあ、巻ちゃんが仕事行ってるときいっつも何してん、と話しかけてみると、緑子はポーチから小ノートをとりだして、〈宿題、テレビみて、ねたら朝〉と書いた。そっか、まあ、巻ちゃんが家でるんて六時過ぎで帰ってくるんが一時くらいやから、ま、あっというまやな、とつづけると、緑子は肯き、小さくちぎった中華まんじゅうのきれはしを口に入れた。

 巻子はおばさんと意気投合し、ここめっさええなあ、気にいったわあ、と上機嫌に言ったあと、大きく咳払いをして、わたしたちのほうを見た。そして、「あたしな、帰ったらいちばんにすることがあります」と、どこか得意げな様子で言った。

「いちばんにすること。なんやと思う?」

「靴脱ぐんちゃうの」

「ちゃいます」巻子は呆れたように首をふって、それから妙に明るい口調で言った。「それは、寝てるこの子の顔みるねんよ」

 緑子は反射的に怪訝な表情になり、巻子の顔をちらっと見た。それから新しい中華まんじゅうをひとつ手にとって、白い膨らみの真んなかあたりに両方の親指をあててめくるように割り、しばらく中身を見つめていた。具の出かかったところに醤油をつけ、それからそれを半分に割り、少し間を置いてそれをさらに半分にし、またそれにも醤油をつけて、黒くなったところをじっと見た。

 そんなふうに緑子が中華まんじゅうにくりかえし醤油をつけるので、醤油がぐんぐん滲みこんだまんじゅうは真っ黒になり、わたしもまんじゅうがいったいどこまで醤油を吸って真っ黒になるものなのかをじっと見ていた。

 わたしの視線をまんじゅうから剥がすように、なあ、と巻子は声を出した。巻子の顔はさっき銭湯ですっかり洗い流したにもかかわらず、すでに脂ででらでらと光っており、蛍光灯の下では皮膚の肌理の粗さ、毛穴のおうとつが、ぼこぼことした影をつくっている。

 それから巻子は大きな笑顔で、「んでな、んでな、聞いてる、わたしな、かわいいなあ、思ってさ、ときどきちゅうしたりするねんよ、寝てる緑子に」と箸の先をひらひらさせながら—もうほんと黙っててごめんけど、でもこれはわたしからの心のこもった超サプライズ、みたいな感じでにっこり笑って言うのだった。いやいやいやいやとわたしは心のなかで巻子の言葉を打ち消しながら緑子を見ると、ものすごい目をして真正面から巻子を睨んでいるのだった。

 巻子はへらへらと笑い、緑子はそんな巻子を睨みつづけた。その目は緑子の顔のなかでどんどん強くみるみる大きくなっていくようだった。気まずいという言葉がおのれの力不足に気まずくなって逃げだしそうなくらいの激烈最悪な沈黙が流れたあと—巻子は手にもっていたビールジョッキをどんとテーブルのうえに置き、なにやの、短く言った。なにやのその目は。巻子は静かな口調で緑子に言った。あんたはいったい、なんやの。そう言うと、またごくごくとビールを飲んだ。

 緑子は巻子から目をそらして、それから壁にかかった漢詩のあたりをじっと見つめていた。そして小ノートを広げると〈きもちわるい〉とはっきり書いた。そしてそれをテーブルのうえにひらいてみせ、その〈きもちわるい〉の下に、ペンで何度も何度も線を引いた。

 力を入れすぎて最後はペンの先で紙が破れた。それから醤油の皿のなかにぼとりと置かれたままになっていた中華まんじゅうをとり、ちぎって口に入れ、醤油がたっぷりしみこんで真っ黒になっているのもかまわずに、つぎつぎに飲みこんでいった。巻子は何度も引かれた線とそのうえにある文字をじっと見て、それきり黙ってしまった。

 醤油、えぐない、としばらくしてから緑子に訊いてみたが、緑子はそれについては何も返事をしなかった。厨房からは変わらず調理の音が弾け散り、客の出入りにあわせたごちそうさまやありがとうございましたの声が聞こえてきた。テレビから無限にこぼれてくる色つきの音がひしめくなかで、わたしたち三人は黙ったまま、残りの食べ物を残さずに食べた。

◯ お金のことでお母さんといいあいになって、なんでわたしを生んだん、ってことをそのまえにすごいケンカしたときはずみでゆうてもうたことがあって、わたしはそれをよう思いだす。セリフ的にまずいなって思ったけど、いきおいで言ってしまった。お母さんは怒ってるねんけど黙ってしまって、すごい後味が悪かった。

わたしはお母さんとちょっとのあいだしゃべらんとこうかって考えてて、しゃべったらケンカになるし、またひどいことゆうてまうし、働いてばっかりでお母さんがつかれてるの、それも半分、いやぜんぶ、わたしのせいで、そう思ったらどうしようもなくなる。はやく大人になって一生懸命働いて、お金をあげたい。けど今はまだそれができひんから、優しくくらいしてあげたい。でも、うまくできひん。涙が、でてくるときもあります。

卒業したあと中学校は、まるまま三年もある。でも中学が終わったらどこかで働いたりできるんかなってことも思う。でも、そんなんで働けるようになったって、ちゃんとした生活が、ちゃんとつづいていけるとは思わない。手に職をつけなければならない。おかあさんは手に職がない。手に職。図書館に、わたしらむけの、一生の仕事を考えるって本もようさんあるから勉強する。

あー最近はおかあさんにお風呂さそわれても行かれへん。お金でケンカした、そのいっこまえのケンカは、ゆうてから、あっ、と思ったけど、お母さんの仕事のことでそうなったんやった。お母さんが仕事の服をきて、しかもあの紫のドハデなやつ、金色のひらひらがついたやつ、あれで自転車に乗ってんのを男子にみられて、お母さんのことをみんなのまえで面白おかしくゆわれたことがはじまりやった。

そのときに、なにゆうてんねんあほかしばくぞ、とかゆうて、ゆえたらよかったのに、みんなのまえで笑ってわたしはごまかした。へらへらして、笑ってしまった。んで、お母さんといいあいになって、最後はお母さん、怒ってるけど泣きそうな顔で、しゃあないやろ、食べていかなあかんねんから、って大きい声で言ったから、そんなんわたしを生んだ自分の責任やろってゆうてもうたんやった。

でもそのあと、わたしは気づいたことがあって、お母さんが生まれてきたんは、おかあさんの責任じゃないってこと。わたしは大人になってもぜったいに、ぜったいに子どもなんか生まへんと心に決めてあるから、でも、謝ろうと何回も、思った。でも、おかあさんは時間がきて、仕事にいってしまった。

緑子


お知らせ

パートナーなしの妊娠、出産を目指す夏子のまえに現れた、精子提供で生まれ「父の顔」を知らない逢沢潤—生命の意味をめぐる真摯な問いを、切ない詩情と泣き笑いに満ちた極上の筆致で描く、21世紀の世界文学。『夏物語』発売を記念して、7月26日18時半から、ジュンク堂池袋本店にて、サイン会が開催されます(こちらから)。


人生のすべてを大きく包み込む、泣き笑いの大長編

夏物語

川上 未映子
文藝春秋
2019-07-11

この連載について

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夏物語 第一部

川上未映子

芥川賞受賞作『乳と卵』の登場人物たちが、あらたに織りなす大長編『夏物語』。7月11日の発売を前に、第一部を全文公開。この物語には、人が生まれて生きて、そしていなくなることの、すべてがある。(平日毎日更新)

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