PHOTO:SHINTO TAKESHI
第18回 なぜに悲しい宗右衛門町よ
いつだったか、やっぱり客がひとりもいない日に九ちゃんが飛びこんできたことがあった。
そのとき、ママも母も外に出ていて——おそらく仲の良い店に電話してそこにいる客をひっぱりに出ていたのだと思う。ほかのホステスもおらず、巻子は焼肉屋のバイトに集中しはじめた頃でやはりおらず、少しのあいだ九ちゃんとふたりきりになったことがあった。あれはまだ母の病気がわかるまえのことだったから、わたしは小学六年生とか、そんなだったはずだ。
「マ、ママおらん」と言う九ちゃんに、すぐ帰ってくると思うで、とわたしは答え、ビールの栓を抜いてグラスに注ぎ、カウンターに置いてやった。九ちゃんは、ありあり、ありがとう、と言ってビールをぐっと飲み干し、わたしはおかわりを注いだ。
九ちゃんはまた、ありあり、ありがとう、と言いながら、ちょっと迷ってボックスのはしっこに寄せられているホステス用の丸椅子に腰かけ、にこにことへらへらのあいだみたいないつもの笑顔で、両手で大事そうに小さなグラスを包んでいた。誰もいない店のなかはいやにしいんとして、わたしたちが黙っていることで生まれてくる沈黙を壁とかソファとかクッションとかがスポンジみたいに吸いこんで、それが少しずつ膨らみながらわたしたちに迫ってくるような気がした。九ちゃんもわたしも黙っていた。電話も鳴らなかった。
しばらくすると九ちゃんは、ごち、ごちそうさま、と言ってギターを肩に掛けなおして出ていこうとしたのだけれど、ドアのまえでぴたりと立ち止まり、少ししてからゆっくりとふりむいた。それから何かすごくいいことを思いついたとでもいうような顔をして、わたしの顔をじっと見た。そして、「う、うた、うたうか、ううたおか」とわたしにむかって言ったのだった。
九ちゃんの小さな目のくぼみの奥の小さな黒目がちろっと光り、「えっ、歌? 誰が?」とびっくりして訊きかえすわたしに、九ちゃんはうんうんと顎を突きだして、わたしを示した。そして嬉しそうに隙間だらけの歯をみせて笑い、うたうた、と言いながらギターのネックをつかんで自分の肩よりも高く掲げ、じゃがじゃがじゃあんと弦を鳴らした。
よれたポロシャツの胸ポケットから小さな笛をすばやく取りだすとぴいっと鳴らして弦の高さをさっと調節し、「そえもんいける、いける、そえもんちょ」と言うと、きゅっと目を閉じて、溜めとビブラートをたっぷり利かせたイントロを弾きはじめるのだった。
恥ずかしいのと急展開すぎるのとでカウンターのなかでもじもじしているわたしに、ほれ、ほれ、というように肯きながら九ちゃんはテンポをとってみせた。イントロを弾きながら、いけいけ、いける、とわたしにむかって笑うのだが、そんなん急に歌えるわけないやろ、しかもギターでとか、とわたしは頭のなかでは思いっきり首をふっているのに、どういうわけか、声はおそるおそる出ようとしていて——これまで客が歌っているのは死ぬほど聴いてきたけれど、しかし自分では一度も歌ったことはない「宗右衛門町ブルース」の歌詞が、からまりながらもなぜか口から出てきたのだった。
九ちゃんは、とまどいながらよろめきながら、なんとかメロディになってゆくわたしの声のひとつひとつを弦の響きで包み、口を大きくあけたままの笑顔でわたしの顔を見て、その調子だというように呼吸をあわせた。音と歌詞がわからなくて止まりそうになると、九ちゃんは和音のなかでメロディを鳴らして導き、そうだそうだというように何度も肯いた。歌詞につまずいても気にするなというように首をふり、わたしは全身でギターを弾いている九ちゃんだけをみて、音を見失わないように、声を出していった。
歌えているのかいないのかわからないままに、結局わたしは九ちゃんと「宗右衛門町ブルース」の最後までを歌いきった。「明るい笑顔を、みせとくれ」という節を歌い終えると、九ちゃんは小さな目をかっと見ひらき、じゃがじゃがんとギターをたっぷりかき鳴らして、いいい、いいい、と嬉しそうに笑った。
そしてわたしにむかって長いあいだ拍手をした。顔が真っ赤なのが自分でもはっきりわかるくらいに恥ずかしくて、両手で頬をぐっと押さえた。九ちゃんはずっと拍手をしていた。わたしは照れくさいのか恥ずかしいのか嬉しいのかもうよくわからなくなっているのを笑ってごまかし、九ちゃんのコップにもう一杯ビールを注いだのだった。
「死んだっていうんは九ちゃん、病気で?」
「ううん、当たり屋のほうで」巻子は鼻をすんと鳴らした。「最近、ここ数年は体があかんのはなんとなくみんな知ってて、もうどの店にもほとんど来てへんかってん。んで最後に見たん、いつやったかな、ほれ、ローズあるやん、駅横の喫茶店、入り口んとこに誰か立ってるわ思てよう見たら九ちゃんで、えらい小っさなってもうて、びっくりしたんやわ。もとから小さいけど、さらに小っさなっててびびってもうたんやけどな、もう長いこと来てへんし、元気かいな思って声かけよか思ったらなんかよろよろ歩いていって、声かけそびれて」
「ギターもってたん」
「もってなかったと思う」巻子はビールをひとくち飲んで言った。「んで、何ヶ月まえや……せやせや、五月の終わりや、夜の十二時頃な、道路んとこで事故やあゆうて。ほら宝龍のまえ。中華料理屋の宝龍。うちらもよう行ったとこな。宝龍でたとこで九ちゃん死んだんや。
あとになって九ちゃんの話になってな、ちょうどその夜、事故の二時間くらいまえに宝龍で久々に九ちゃんみたってゆうお客さんがおってん。九ちゃんどんな感じでしたんて訊いたら、いつもどおり愛想ようにこにこ笑って、ビール飲んで、なんやようさん食べてたで、ゆうて。んでそのあとやな。今回は、うまくいかんかったんやな」
どっ、という笑い声がテレビから響き、わたしはほんの少し固くなった餃子を箸でつまんで口に入れた。
「病気もしてたみたいやけど、最後は九ちゃん、ようけ食べれたんやな」巻子が言った。
緑子はわたしたちの話に関心もないようで、顎を少しあげたまま、さっきとおなじ姿勢でテレビの画面を眺めていた。九ちゃんの顔がふっと浮かんで、消えていった。それから肌色のぼこぼこした頭がもう一度浮かんで、両手でビールをきゅっとにぎり、小さな膝をそろえて隅っこに座ってる姿がやってきた。
緑子が注文した中華まんじゅうが運ばれてきた。やってきた中華まんじゅうの何の意味もない白さ、鈍い温かさ、そしてその漠然とした膨らみをみていると、目のまわりが熱くなった。わたしは鼻から大きく息を吸いこみ、背すじを伸ばして座り直した。
「よっしゃ中華まんきたで、食べようで」
わたしはあつあつのまんじゅうをひとつ皿にとってやると、さあさあというように緑子の顔を見た。緑子は小さく肯いてから水をひとくち飲んで、皿に置かれたまんじゅうに目をやった。巻子もせいろに手を伸ばしてひとつを取った。そして緑子がまんじゅうの白い頭に小さく齧りつくと、それがまるで合図でもあったかのように——空気がふっと緩んだような気がして、そしてそれが気のせいでないことを証明するような気持ちでもって、わたしはジョッキのなかのビールをいっきに飲み干した。
二杯目を注文した。ほどなくやってきた豆腐ちぢれ麺や白湯麺や烏賊の炒め物などでテーブルはいっぱいになり、テレビの雑音に、三人の咀嚼の音、水を飲む音、食器を打つ音などが混じって賑やかな感じになった。
お知らせ
パートナーなしの妊娠、出産を目指す夏子のまえに現れた、精子提供で生まれ「父の顔」を知らない逢沢潤——生命の意味をめぐる真摯な問いを、切ない詩情と泣き笑いに満ちた極上の筆致で描く、21世紀の世界文学。『夏物語』発売を記念して、7月26日18時半から、ジュンク堂池袋本店にて、サイン会が開催されます(こちらから)。