PHOTO:SHINTO TAKESHI
第16回『なあ、あんた男になったんかいな。うちらぜんぜん知らなんだ』
こっちが気にしているはずなのに、なんであっちが。じろじろと見ていたことがしゃくに障ってわたしこのあとしばかれるんやろか、などと考えながらわたしも刈りあげにちらちらと目をやっていると、刈りあげの視線とはべつの何かが刈りあげのなかに潜んでいて、その何かにじっと見つめられているような、どこか奇妙な感覚がしはじめた。
不安とも焦りともつかないようなものがわたしをまっすぐに見ているような。金髪が刈りあげにむかって何か冗談を言い、それにたいして笑ったその横顔を見たときに——もしかしてこの子、ヤマグちゃうのん、と頭のなかで声がした。
ヤマグ。山口——下の名前は何やった、そうや千佳、山口千佳。ヤマグ。ヤマグは小学校の同級生。かなり仲良くしていた時期もある。いつもグループの二番手にいるような女の子。ヤマグ。運河の橋の手前で母親が小さなケーキ屋をやっていて、みんなで遊びに行くと、たまにおやつをもらえることがあった。ドアをあけると甘い匂いがいっせいに広がる。わたしたちは大人がいなくなるのを見計らって調理場でこっそり遊ぶこともあった。銀色の泡立て器やいろんなケーキの型やへらなんかが積みあがり、大きなボウルにはいつも白や薄い黄色のとろりとしたものが波うっていた。
いつだったかふたりきりになったとき、秘密だというように目を細めたヤマグが人さし指ですくったそれを、わたしは舐めたことがある。髪はいつもショートにしていて、六年のときには腕ずもう大会ですべての生徒に勝ちぬいて一位になったこともあるヤマグ。眉が濃くて彫りが深く、笑ったときにぐんと近づく鼻と上唇の距離が目に浮かぶ。
『あんたこんなとこで何してん』とわたしが笑うと、久しぶり、というようにヤマグは肩の筋肉を盛りあげる。その肌色をみた瞬間——カスタードクリームの匂いのようなものがぷうんと広がり、わたしたちはふたりでボウルのなかを覗きこんでいる。どれくらいやわらかいのか、どんな感触がするものなのか、見ているだけではわからないそのかたちのなかに、ゆっくり沈んでいったヤマグの指。あのときわたしの舌のぜんぶに広がって、何度も味わったあれがやってくる。
ヤマグは黙ってわたしを見つめている。『なあ、あんた男になったんかいな。うちらぜんぜん知らなんだ』と言ってみても返事はなく、腕に力を入れてこぶをつくるだけ。するとその膨らみは、ちぎってまるめたパンのたねみたいにぽこぽこと腕からこぼれおち、それらはみるみる小さな人になって増えつづけ、水面を走り、タイルを滑り、人々の裸を遊具にして声をあげてはしゃぎはじめる。肝心のヤマグは何をしてるのかと思えば鉄棒に体操服のすそを巻きつけて、いつまでも終わらない逆あがりをつづけている。
わたしは湯船で遊んでいるこぶのひとりの首をつまみあげ、くすぐりながら、ここはあんたらの場所やないやろと注意する。けれどこぶたちは《おんなはおらん》と楽しそうに笑い声をあげて身をよじり、それを歌うようにくりかえすだけで気にもしない。するといつのまにかあちこちに散らばっていたこぶたちがわたしのまわりに集まって円になり、そのなかのひとりが天井にむかって指をさす。いっせいに見あげるそこには林間学校の夜空が広がっていて、こんなんみるんはじめてや、無数にひしめく星々の瞬きにむかってわたしたちは目をみひらいて叫び声をあげている。
ひとりが手にもったスコップで土をすくう。学校に住んでいたみんなのクロが死んだのだ。穴を掘って底に寝かせたクロは毛も体もかちかちになって、土がかけられるたびに遠くへ、どこかへ、運ばれてゆく。わたしたちは泣きつづける。とまらないしゃっくりがいつまでも涙をくみあげる。太陽が反射する踊り場で誰かが冗談を言う。ものまねをする、思いだす、わたしたちは体のぜんぶを使って笑いつづける。
とれかけた名札、消えかかる黒板の文字。《だいじなことに》、こぶのひとりがわたしに言う。《おとこもおんなもほかもおらん》。こぶたちの顔はよく見るとみんなどこかで見たことのあるような懐かしいものばかりなのだけれど、でもここからでは光の加減でちゃんとは見えない。もっと目を、つよく凝らそうとしたときに、ふと名前を呼ばれた気がして顔をあげると巻子が不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。刈りあげと金髪は、いつのまにかいなくなっていた。さっきまでまばらになっていた客の数は増え、湯船や洗い場をめいめいに動くいくつもの裸が見えた。
◯ 今日はお母さんに頼まれてミズノヤにいった。帰ろうと思ったけどそのまま地下におりてみた。お母さんにときどき連れてきてもらって遊んでいたのがまだそのままあって、懐かしかった。ロボコン。まだロボコンがあってさ、ロボコンめっちゃおっきかったのに、久しぶりに見たらすごい小さく感じられてびっくりした。
ずっと昔にわたしがロボコンに入って運転して、お金いれたらぶうんってゆって動くねんけど、目のところが小さい窓になってて、わたしはそこからお母さんをみてたけど、あっちからは目のところは黒くみえるから、わたしの顔はみえへん。それがすごい不思議やったことを思いだす。いま、お母さんにはロボコンしかみえてないねん。あっちからは、ロボコンやねんな。でも中身は、ほんまはわたしが入ってる。その日は、いちにち不思議な感じがしてたのを覚えてる。
わたしの手はうごく。足も、うごく。動かしかたなんかわかってないのに、いろんなところがうごかせるのは不思議。わたしはいつのまにか、しらんまにわたしの体のなかにおって、なかにあって、その体は、わたしのしらんところでどんどんどんどん変わってゆく。こんなことを、どうでもいいことやとも思いたい。どんどん変わる。それが暗い。その暗さがどんどん目にたまっていって、目をあけてたくない。あけていたくない、から、あけられない、になるのがこわい。目がくるしい。
緑子
お知らせ
パートナーなしの妊娠、出産を目指す夏子のまえに現れた、精子提供で生まれ「父の顔」を知らない逢沢潤——生命の意味をめぐる真摯な問いを、切ない詩情と泣き笑いに満ちた極上の筆致で描く、21世紀の世界文学。『夏物語』発売を記念して、7月26日18時半から、ジュンク堂池袋本店にて、サイン会が開催されます(こちらから)。