PHOTO:SHINTO TAKESHI
第15回「女らしさ」が、じわじわと浮かびあがってくるような感じがした
このふたりが初めてここに来る客なのか、それともたまに来る客なのかはわからない。少なくともわたしは見たことがない。しかし浴場にいた客たちは一瞬にしてぴたりと固まり、絶句に近い空気が流れた。しかし当のふたりはそんなことは気にもならないようで、金髪は刈りあげにぴたりと寄り添い、「髪の毛アップしてきたらよかったあん」などと甘えた声で話しかけ、刈りあげは上半身を少し前傾させながら浴槽の縁にどっしりと座り、おうおう、というような感じで肯くのだった。
ふたりは交際関係にあるようだった。しかし詳しいところはわからない。しかし雰囲気から想像するに、金髪の立場はいわゆる女性、彼女であって、そして刈りあげは男性、つまり彼氏であるようだった。
わたしはそれとなく刈りあげの股間部分に目をやってみたが、タオルでしっかり隠されそのうえに手が乗せられているために、男性器がついているのかどうかはわからない。ふたりは体をくっつけて縁に座り、足湯を楽しんでいる。失礼だとはわかっていてもわたしは刈りあげのことが気になって、伸びをしたり首のストレッチをするふりをしてときどき覗きみた。
もちろん刈りあげは、女なのだろう。ここは女湯なのだから。でもやっぱり見た目は男である。ムキムキの肩まわりとはちょっとギャップのあるピンク色の乳首とか、皮下脂肪の感じとか、女性の体の名残を見つけようとすればできるだろうけど、でも少なくとも刈りあげは、男の体とふるまいをはっきりと演出しているようにみえた。
わたしたちが働いてきた笑橋にもいろんな飲み屋があり、いわゆる「おなべバー」には「おなべ」と呼ばれるホストたちが働いていた。
彼らは生物学的には女性だけれど、自認する性が男性だから、それに従って男性っぽいかっこうをし、男性のホストとして接客をする。異性愛者であれば、男性として女性と恋愛もする。たとえばおなじ大阪であっても、価格設定もホステスのレベルも段違いに高い北新地なんかの本格的なクラブになると、手術で胸を取り、男性ホルモンを投与しつづけて声を低くし、髭を濃くし、性器にいたるまでの特徴をすっかり変える人がいる、というのは聞いたことがあった。
けれど笑橋のおなべバーでは金銭的な問題もあるのか、そこまで本格的に乗りだしている人はいなかった。いつかできたらいいねんけどなあ、と言っている人はいたけれど、基本的には、さらしや専用のサポーターで胸をべたっと押し潰し、スーツを着こんで髪をセットし、あとは男性っぽく、あるいは、その人らしくふるまう人がほとんどだった。
そんなふうに、たまに客を連れてスナックにやってくるおなべの人たちをみていると、ふと——ママやほかのホステスからは感じたことのない、女らしさみたいなものを感じることがあった、骨格なのか肉質なのか、それがどこから来るものなのかはわからないけれど、いつもどこかしらに女性らしさとしか言いようのないものが普通の女の人たちよりも余計に感じられたのを思いだした。
すぐ目のまえにいる刈りあげの体をちらちら見ていると、当時はうまく言葉にはできなかったけれど、しかしたしかに感じていた——自分の体や巻子や母や友だちの体ではほとんど意識することもない「女らしさ」が、やはりじわじわと浮かびあがってくるような感じがした。
だからそういう人のことはまるで知らないというわけではなかったのだけれど、しかしこうして互いが裸の状態で風呂に入るのは初めてである。気がつくとまわりにあれだけいた客のあらかたが出てしまっており、湯船に浸かっているのはわたしと巻子だけになっていた。
わたしはじりじりし始めていた。刈りあげが本当は女で、女湯に入る資格があるのはわかっている。しかしこの状況が自然であるとは思えない。だって、いま現にわたしはかなりの居心地の悪さを感じているのだし。それとも、そんなことを感じるわたしがおかしいのだろうか? というか、刈りあげにとって女湯ってだいじょうぶなん? 気持ちは男性である自分がこうして女だらけの女湯に入るのって、いけてんの?——って、いや違う、そうじゃない。刈りあげ自身には何も問題がないからこそ、こうして堂々と女湯にいるのであって、わたしが疑問に思うべきは、「わたしら、この刈りあげに裸みせててだいじょうぶなんか?」なのだ。
意識が男性であり、いわゆる異性愛者であるのなら、たとえ本人にまったく興味がなくとも、わたしらの体は刈りあげにとっては異性のものである。いわゆる普通の男が女湯に入ってくるのと、いったい何が違うのか。わたしは顎までを湯に浸けて、目を細めて刈りあげをじっとみた。最初のじりじりは、いまや明確な苛だちに変わっていた。それに異性愛的なカップルとして、混浴でもない女湯にこうしてふたりで堂々と入っているのも、やっぱりおかしいではないか。
このことを目のまえの刈りあげに言うべきか言わんべきか、わたしはしばらく考えた。なにしろ繊細な問題ではあるし、どういう展開になるにせよ面倒な話であることには違いない。そんなことをわざわざ自分からもちかけるなんて普通に考えて馬鹿げている。
でもわたしには昔からどうもこういうところが少しだけあって——それは「なんでこういうことになっているのか」と不思議に思ってしまったら最後、どうにも気になってしょうがなくなり、黙っていられなくなるということがあるのだ。もちろん頻繁に起きることでもないし、人間関係などにおいてはほとんど気にならない。そこには何か傾向のようなものがあるのかもしれない。
小学生のときは、イベント帰りの新興宗教の信者の団体と電車で乗りあわせ、真実と神の存在を笑顔で説いてくる彼らと激しい口論になったし(もちろん最後は微笑みとともに憐れまれた)、高校生のときは広場で右翼団体の演説を最初から最後まで聞き、矛盾点をしつこく質問していたらスカウトされるというようなこともあった。もしいま、刈りあげと話をするならどんな感じになるだろう——わたしはひきつづき鼻の下まで湯に浸かりながら頭のなかでシミュレーションをしてみた。
——いきなりすみません、あの、さっきからめっさ気になってるんですけど、あなたは男性ですよね?
——は? あんだら殺すぞ。
ちゃうちゃう。ここは大阪ではないし、体格がよく鋭い目をしている男がみんなこんなふうな対応をするというわけではない。これはわたしの先入観にして偏見だ。それにわたしの切りだしかたも良くなかったような気がする。であれば刈りあげにどんなふうに話しかければ失礼がなく、わたしが抱いた疑問を伝えられ、また知りたいことにいい感じで迫ることができるだろうか。
わたしは木の板と棒で火を起こす人みたいに意識を前頭葉の一点に集中させて高速でこすりあげ、そこにうっすらと煙がのぼってくるのを待った。とりあえず刈りあげは、わりと気のいい好青年キャラクターに設定し、こう訊けばこう返事がきてそれにたいしてはこう突っこんで返しにはこう、というような架空の対話を頭のなかで広げてみようとしたとき、刈りあげがちらちらとこちらの様子をうかがっていることに気がついた。
お知らせ
パートナーなしの妊娠、出産を目指す夏子のまえに現れた、精子提供で生まれ「父の顔」を知らない逢沢潤——生命の意味をめぐる真摯な問いを、切ない詩情と泣き笑いに満ちた極上の筆致で描く、21世紀の世界文学。『夏物語』刊行を記念して、川上未映子さんのサイン会が開催されます。【大阪】明日13日14時から、紀伊國屋書店梅田本店にて(詳細はこちら)。【東京】7月26日18時半から、ジュンク堂書店池袋本店にて(詳細はこちら)。