夏物語 第一部

おっぱいは誰のもの

銭湯で見た老女の乳首の色に驚嘆する巻子とわたし。豊胸手術をして胸を大きくしたい、乳首の色を薄くしたいのは、いったいなんでなんやろう―。芥川賞受賞作『乳と卵』の登場人物たちが、あらたに織りなす大長編『夏物語』。いよいよ本日発売、そして重版かかりました! 第一部を引き続き、全文公開します。この物語には、人が生まれて生きて、そしていなくなることの、すべてがある。(平日毎日更新)

PHOTO:SHINTO TAKESHI

第14回 おっぱいは誰のもの

 それぞれ湯のなかでぼんやりしながら、壁の高い位置に掛けられた時計を見るとさっきから十五分ほど浸かっている。しかし巻子の言うとおり、心地よい温度ではあるけれど体に熱が溜まっていくという感じではなく、このままあと一時間でも二時間でも浸かっていられそうなくらいにぬるい。

 巻子はまだ女たちの体を観察しているのかとちらりと横顔を覗いてみると、眉をしかめてじっと一点を凝視している。

「やっぱぬるめやな。巻ちゃんどう、いったん出て体あらおか」

「……いや」巻子は低い声でつぶやき、しばらく黙ったままじっとしていた。

「巻ちゃん?」

 するとつぎの瞬間—ざばっという音とともに巻子がいきなり立ちあがった。そしてタオルを剥がしてむきだしになった自分の胸をわたしのほうへむけ、空手部か柔道部かというくらいにどすの利いた低い声で、どう、と言った。

「ど、どう?」

「色とか、かたちとか」

 小さい黒い、でも大きい、という言葉がわっと頭に浮かんだが、しかしわたしは見送った。二人組の片方が腰に手をあて仁王立ちのような意気込みでもう片方を見下ろしているというこの構図がほかの客からどうみえるのかという心配もまとめて見送り、すばやく肯くことしかできなかった。

「大きさはええわ。わかってるから」巻子は言った。「色はどう。色。あんたからみて黒い? 黒いとしたら、どれくらい黒い? 正直にゆって」

「や、黒くはない」とまったく心にもないことを思わず言ってしまったわたしに、巻子はさらに質問をつづけた。

「じゃ、これ普通の域?」

「や、普通っていうのが、だいたいどういう」

「あんたの考えの普通でええから」

「え、わたしの普通で?」

「そう、あんたの普通で」

「でもわたしの普通って、それ答えても巻ちゃんが知りたいことにたいするちゃんとした回答にならんていうか」

「そういうまわりくどい系、も、いいから」平板な声で促す巻子に、仕方なくわたしは答えた。

「ま、ピンクでは、ないよね」

「ピンクやないことくらい知ってるよ」

「あ、そっか」

「そうや」

 それから巻子はゆっくりと湯船に浸かりなおし、わたしたちはさっきとおなじように前方を見ることもなく眺めていたが、心の目に焼きついて離れないのは、もちろん巻子の胸である。巻子の胸、そして乳首が、ざばあっと湯のなかからいきなり現れたその様子が、なぜかネッシーとか大艦隊などが水底からその巨体を浮かびあがらせるようなイメージかつスローモーションで、何度でも再生されるのだった。

 蚊にさされた程度の膨らみしかない胸のうえにくっついた、何かの操縦パーツにもみえるような立体的な、縦にも横にも立派な乳首。横に倒したタイヤというか。あるいはいちばん濃い鉛筆で—いちばん濃いのって10Bやっけ、それで力まかせにぐりぐりと塗りつぶした直径約三センチの丸というか。とにかく、濃かった。想像以上のその色の濃さに—美しさやきれいさや幸せの話とはべつに、少々薄くしてもいいのかもしれないとわたしは思った。

「黒いやん。わたしの黒くて巨大やん。知ってるよ。わたしのがきれいでないってことは」

「や、感じかたって人によるし、それにそんな、白人ちゃうんやし。色ついててあたりまえやし」

わたしは、乳首とか色とかどうでもいいやん、そもそも興味とかないし、というような雰囲気でもって言ってみたけれど、巻子はそんなわたしの気遣いをまるっと消し去るようなため息をついた。

「わたしも、まあ、子ども産むまではゆうてもここまでじゃなかった」巻子は言った。「そんな変わらんと言われるかもしれんけど、きれいとかじゃなかったけど、でも正直、ここまでやなかった。

 これみてや。これはないよ。オレオかっていう話やん。お菓子のな。クッキーのな。でもな、オレオやったらまだましや。これもうあれとおなじやで、アメリッカンチェリーな、あのすんごい色、ただの黒やなくて赤がまじったすごい黒な、んでな、アメチェ色やったらまだええけどな、ほんまはな、画面の色や、液晶テレビのな、電源落としたあとの、液晶テレビの画面の色なんや。こないだ電器屋でみて、この色なんか知ってるな、どっかでみたことあると思ったらそれや。わたしの乳首や。

 んで大きさもな、なんていうん、乳首だけで余裕でペットボトルの口くらいになってさ、先生に『これ赤ちゃんの口入るかなあ』って真剣に言われたし、そんなんあんた、いままで何万個も乳首みてきた乳首のエキスパートがそう言うんやで。んで胸はぺったんこ。金魚すくいの半分だけ水入ったビニルの袋あるやろ。ふにゃふにゃの感じわかるか。あれやで。いまのこれ。そらな、子ども産んでも変わらん人も、もとに戻る人も、そらいろいろおるよ。でもとにかくわたしは、これになってしもたんや」

 しばらくふたりとも無言になった。わたしは巻子の言ったことを頭にめぐらせながら、湯のぬるさについて考えてもいた。これで四十度というのはないな。あの表示はどっかおかしいな、などなど。そして巻子の乳首を思った。

 さっきの強烈なビジュアルからいろんなイメージが浮かんでくるけれど、もし巻子の乳首をひとことで表すとしたら何になるか。やっぱり「強い」になるだろうか。『巻ちゃんの乳首って、強いよね』。これって褒めたことになるんやろうか。ならんやろうね。でもなんで乳首が強かったらあかんねん。黒かったらあかんねん。きれいとか、かわいいとか、乳首にそれも気持ちわるいやろ。強くて黒々した巨大な乳首が覇権をにぎることってないんかな、乳首の世界で。そんな時代ってこんのかな。こんやろな。

 そんなことをぼんやり考えていると、入り口がひらいて湯気が動き、二人連れの女が入ってきた—と思ったのだが、ひと目みて、どうも直感的に何かがおかしい。ひとりはいわゆる「女性の体」をした、二十代くらいの若い女性なのだけど、もうひとりのほうが、どう見ても、これが男性なのである。

 メイクを落としていない顔も、首の細さも胸も腰のあたりも、背中まで伸ばした金髪の感じも一見して女性だとわかるひとりが、もうひとりの—短く刈りあげられた髪、首から肩にかけてこんもり盛りあがった筋肉、太い腕、そして胸はふっくらしているけれどほとんど平らで、股間にタオルを当ててにぎるようにしている連れの腕に自分の腕をからめながら、入ってきたのだ。


お知らせ

パートナーなしの妊娠、出産を目指す夏子のまえに現れた、精子提供で生まれ「父の顔」を知らない逢沢潤—生命の意味をめぐる真摯な問いを、切ない詩情と泣き笑いに満ちた極上の筆致で描く、21世紀の世界文学。『夏物語』刊行を記念して、川上未映子さんのサイン会が開催されます! 【大阪】7月13日14時から、紀伊國屋書店梅田本店にて(詳細はこちらから)。【東京】7月26日18時半から、ジュンク堂書店池袋本店にて(詳細はこちらから)。

人生のすべてを大きく包み込む、泣き笑いの大長編

夏物語

川上 未映子
文藝春秋
2019-07-11

この連載について

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夏物語 第一部

川上未映子

芥川賞受賞作『乳と卵』の登場人物たちが、あらたに織りなす大長編『夏物語』。7月11日の発売を前に、第一部を全文公開。この物語には、人が生まれて生きて、そしていなくなることの、すべてがある。(平日毎日更新)

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