PHOTO:SHINTO TAKESHI
第11回 銭湯でわかる二、三の事情
気がつけば一時間近くがたっていて、さすがに巻子も豊胸手術にかんする情報や情熱のほとんどを話し尽くしてしまったのか——ちゃぶ台のうえに広げられたパンフレットを集めて角をそろえ、ボストンバッグにしまうとふうと大きく息をついた。
時計は四時を指しており、窓を見るとまだまだ強い日差しがびくともせずにガラス一面に張りついている。
窓のむこうは、何もかもが白く発光している。すぐ隣にある駐車場に停められた真っ赤な車も、フロントガラスはまるでそこから水が湧きだしているみたいにみずみずしく輝いている。光がこぼれるように運動している。光り輝いているとはこのことだ。
わたしはそう言葉にして思い、しばらくそのきらめきを眺めていた。するとまっすぐに伸びた道路の奥から、小さな緑子がうつむきながらこちらにむかって歩いてくるのが見えた。近づいてくる顔が少しこちらへむいたような気がしたので、わたしは大きく手をふった。すると緑子も一瞬だけ立ち止まり、こちらに気がついたというように小さく手をあげ、それからまたうつむいて歩き、その姿はだんだん大きくなっていった。
今回の巻子の上京の目的は明日のクリニックのカウンセリングで、そのほかの予定についてはとくに考えていなかった。明日、巻子は昼まえに出かけてしまうので、午後はわたしと緑子のふたりで過ごすことになる。もうずいぶんまえになるけれど、新聞の勧誘にきたおばさんが気のいい人で、まあ気がむいたら考えといてよと言って置いていってくれた遊園地の乗り放題チケットつき無料券がそのままひきだしにしまってあるけれど、だいたい小学六年の女の子が親戚と遊園地になんて行きたいと思うものなのか。
さっきの巻子の話で緑子が本が好きだということは知ったけれど、しかしそもそも声も出さない緑子がわたしとふたりで出かけると言ってくれるのかどうかもわからない。そういえば、そのおばさんは「わたしらの仕事って勧誘員じゃないのよね、新聞拡張員っていうの」とにっこり笑って教えてくれた。この仕事って女が少ないからわりと契約とれるのよ、あんたもおなじバイトならこっちのほうが稼げるんじゃないの、と笑っていたことを思いだす。
しかしそれはまあ明日のことなのだから、明日のことは明日考えればよいことで、もう半分が過ぎたとはいえ考えるべき問題は、まだ少し残っている今日のことだ。夕飯は近所の中華料理屋に行こうと考えているけれど、それまでにはまだ三時間くらい余裕がある。わりと長い。
巻子はビーズクッションを枕にしてボストンバッグに片足を乗せてテレビを眺め、帰ってきた緑子はすみっこに腰を下ろしてノートに何かを書きつけている。巻子によると、緑子はしゃべらなくなってからというものふたつのノートを肌身離さずもっているらしく、ふだんの会話にはさっきから使っている小さめのノートを、そしてもうひとつの厚めの一冊にはどうやら日記らしきものを書いているのではないかということだった。
気づまり、というほどでもないけれど、しかしどことなく自然ではないというか、気を遣ってしまうような雰囲気のなかで何をしていいかわからず、とりあえずちゃぶ台をふき、さっき麦茶を出したときに水を足したばかりなのだから、まだ固まっているわけもないのに製氷ケースをチェックし、それから絨毯のうえに落ちていた糸くずをつまんだ。巻子はまるで自分の家にでもいるようなあんばいで寝そべってテレビを見て笑っている。緑子のほうも何かを書くのに集中しているようではあるし、それなりにリラックスしているのが伝わってくる。
夕飯までべつに何をする必要もないかもしれない。これはこれでええのかも。他人のことを気にせず、みんながそろわず、それぞれがおのおのすることでもって時間を過ごすというのは普通に考えてみれば普通のことなのだ。いや、普通というより、心地よいことのはずなのだ。
そしたらわたしも読みかけの小説のつづきでも読めばええやないかと椅子に座ってページをひらいてみたけれど、しかし人の気配があるせいかどうにも落ち着かず、一行進んでつぎの行にゆき、またつぎのページをめくってもそこにある文字をほとんど模様として目で追っているだけで、頭のなかと物語が繋がっていないことにすぐに気がついてしまう。わたしはあきらめて本を棚に戻し、なあ巻ちゃん、ひさびさに銭湯いかん、と声をかけた。
「近くにあるん?」
「あるある」とわたしは言った。「みんなでさっぱりしてから、ご飯ということにしようや」
するとさっきまで首を折り曲げて何やらを熱心に書いていた緑子はさっと顔をあげてこちらを見、小さなノートに素早く取り替え、〈わたしはいかない〉と寸毫の迷いなく書きつけた。横目で緑子の動作を見ていた巻子はそれについては何も答えず、わたしにむかって、ええな、いこいこ、と返事をした。
わたしは洗面器に銭湯用具一式を入れてバスタオルを二枚のせ、ビニル製の大きなショルダーバッグに突っこんだ。
「緑子、待っとける? ほんまに行かんの」
まあ行くわけがないわな、とわかってはいるけれど念のために訊いてみると、緑子は唇の両はしをきゅっと結び、いやに渋い目つきで一度だけ大きく肯いた。
残された熱気とともに夜へむかい、ゆっくりと沈んでいこうとしている夏の夕刻は、いろんなものがこんなにはっきり見えるのに、いろんなものがあいまいだ。懐かしさとか優しさとか、もう取りかえしがつかないことやものたちで満ちていて、そんなもやのなかを歩いていると、おまえはこのまま進むのか、それとも引き返すのかを問われているような、そんな気がしてしまう。
もちろん世界の側がわたしに関心があるなんてことはないのだから、これはどこにでもある自己陶酔だ。何を見ても、見なくても、感傷的な物語を立ちあげてしまうこの癖は、わたしが文章を書いて生きていきたいと思うこの気持ちの、足をひっぱるものなのか、それとも応援するものなのか。今はまだよくわからない。でも、いつまでわからないでいられるだろう。それもまだわからない。
銭湯までは歩いて十分。昔はいつも、こうしてふたりでならんで、だいたいは夜、ときどきは日曜日の朝風呂に、巻子と銭湯までの道を歩いたものだった。入浴というよりは遊びにゆくようなものだった。近所の子どもたちと会えば風呂のなかでお母さんごっこなどをしたりして数時間いることもざらだった。
風呂だけじゃなく、わたしたちはいつも一緒にいて、巻子は自転車の荷台にわたしを乗せてありとあらゆるところを走りまわった。ずいぶん年が離れているから退屈しそうなものなのに、しかし妹だからしょうがなく面倒を見ているという感じを巻子から受けたことはなかった。
そういえば夕方の公園で制服を着た巻子がひとりでぽつんと座っているのをみたこともある。訊いたことはないけれど、もしかしたら巻子は同級生たちといるより小さな子どもたちといるほうが気が楽だったのかもしれない。そんなことを思いながら、なぜ今日のわたしはこんなにも回顧趣味というか、とりとめのないことをつぎからつぎに思いだしているのだろうと思ったが、それはまあそうなるのが道理というか、当然のことだとも思うのだった。
巻子というのは現在形で生きていて、現在のわたしとも関係している個人だけれど、しかし巻子とわたしのつながりの大部分は、過去の体験と記憶を共有しているということで成り立っているのだから。巻子とこうして時間を過ごすということは、同時にそれを思いだすこととほとんどおなじことなのだ。誰にも訊かれてなどいないのに、頭のなかで言い訳をしながら足を進めた。
お知らせ
パートナーなしの妊娠、出産を目指す夏子のまえに現れた、精子提供で生まれ「父の顔」を知らない逢沢潤——生命の意味をめぐる真摯な問いを、切ない詩情と泣き笑いに満ちた極上の筆致で描く、21世紀の世界文学『夏物語』、いよいよ11日発売です。刊行を記念して、サイン会・イベントがいくつか開催されます。参加方法など詳細は、こちらからどうぞ。川上未映子さんからのメッセージも掲載されています。