あぁ、最近どんどん筆が遅くなっています。新店舗「問tou」が始まってから週3日間店に詰めていて、PCに向かうことのできる時間が減っています。帰ると疲れ切って寝てしまうことも多くてごめんなさい! って言い訳から今週はスタート。
忙しい日々を送る中でふつうって何だろう?とよく考えるようになりました。今日はわざわざのキャッチフレーズでもある「ふつうはとくべつ」について考えてみたいと思います。
ふつうに縛られる
「ふつう」という言葉に縛られて生きてきたような気がしている。ふつうはこうだから、ふつうはこうした方がいい、ふつうじゃないよ。人に何かを話す時に、誰もが自分基準の「ふつう」で話をする。だけど、その「ふつう」って一体何なの?と物心がついた時から感じていた。
わたしは小さな頃から「みんなのふつう」になかなか馴染めずに、ふつうに憧れつつも、ふつうの基準と戦ってきた気持ちがしている。変わっていると評される度に所謂「ふつう」とは何なのだろう?とずっと自問自答していた。
宿題をやらなかったこと、大学に行かなかったこと、就職しなかったこと。
自分の人生を振り返って、主だった「ふつう」ではない行動がこの3つである。まず小学生の頃に宿題をどうしてもできないというのでつまずいた。これは自分の強い意思があって宿題を突っぱねていた節がある。家に帰ったら自由に遊びたい、やりたいことをやりたいというのがあり、先生に何度怒られて立たされても、やらないと宣言してやることは一切なかった。
中学生になってもそれは変わることがなく、自主的に勉強したいと思うようになった中学2年生まで、与えられた宿題は一切拒否し続けた。だからとても成績が悪かった。ただ授業はとても好きで、よく聞いてよく発言して参加する子どもであった。勉強も好きだったけど、学校以外では思いっきり遊びたかったのである。
高校生の頃には、当たり前のように大学に行くという進路を選ぶことができなかった。自分の将来を考えても、何かをしたいとか何かになりたいということが一切思い浮かばず、「とりあえず大学に行きなさい」という親や先生の言葉を聞くことができなかった。大学に行って何をしたいのかが思い浮かばない時点で、大学に行くべきではないと思っていた。後々、大学に行かなかった選択を後悔することもあったが、その後悔もいつの間にか消え去った。
さらに就職という選択もすることができなかった。最初に就職した会社は、辛くなって3日で脱走してしまった。それから定職に就くこともせず、とりあえずバイトをしながら、やりたいことを探してやってみるということを繰り返した。大人になってからの仕事の経歴は、殆どフリーランスである。常に自営であったのだ。
多分、宿題・大学・就職はトリプルスタンダートで所謂「ふつう」の行いの際立ったものであろう。その3つを選択しなかったことは、わたしが今までの人生を通じて「変わっている」と言われ続けた要因であると思う。
本当にふつうはふつうなのか?
「ふつう」の基準は、今も現在進行形で移り変わっている。数十年前はふつうであった「結婚したら夫が会社へ、妻は専業主婦」という形も様変わりし始めた。女性が働くこともふつうになりつつあり、夫が家事育児に積極的に参加することもあたりまえのこととして認識されるようになってきた。核家族化が進み、祖父母と一緒に住む家族の形態も段々と珍しくなってきている。
駅ではかつて人間が切符を切っていて、いつのまにか自動改札になって、今ではスイカでピッとやる。現金で決済することがよしとされていた時代も流れ、クレジットカードで清算することがふつうになり、電子マネーでの決済も当たり前に。家付けの電話から、PHS、携帯電話、そしてスマートフォンへ。いつの時代も「ふつう」は移り変わり続けている。かつてのふつうは消え、現在のふつうへと様変わりしており、ふつうのなんたるかをいつも理解しようとしていないと時代に置いてきぼりにされてしまう。要するに時代の変化と共にふつうの基準は刻々と変わっていく。
ふつうを辞書で調べると「広く通用する状態のこと」と書かれている。対義語として特別があり、わざわざのキャッチフレーズである「ふつうはとくべつ」はものすごい矛盾を内包した言葉であるが、やはりふつうはとくべつだなと思う。いつの時代も特別であったことが、段々とふつうに変化していく。変わっていた人はちょっと時代を先取りしただけの人なのかもしれない。
ふつうを求める時代から多様性を認める時代へ
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