夏物語 第一部

豊胸の道のりは、成功への道のりは、遠いもんやのよ」

「わたし、豊胸手術うけよ思てんねんけども」そんな電話が姉の巻子からかかってきたのは、今から三ヶ月くらいまえ。今後の生活や、お金、緑子のことも気がかりだが、巻子はそのために上京してきたのだーー。芥川賞受賞作『乳と卵』の登場人物たちが、あらたに織りなす大長編『夏物語』。7月11日の発売を前に、第一部を全文公開。この物語には、人が生まれて生きて、そしていなくなることの、すべてがある。(平日毎日更新)

PHOTO:SHINTO TAKESHI

第9回 「豊胸の道のりは、成功への道のりは、遠いもんやのよ」

 様々なサイズのパンフレットはぜんぶで何冊あるのだろうか。二十冊でも三十冊でも利かないような厚さを見ながら、パソコンをもっていない巻子がこれらをどんなふうにして集めたのかを想像するとまた仄暗い気持ちになりそうだったので、入手方法についてはふれないでおいた。わたしは巻子のお勧めの一冊をのけて、まずはそれ以外のパンフレットを手に取ってめくってみた。ほぼ裸体の、美しい感じのイメージショットに起用されてるのは金髪の白人モデルが多く、優しいピンク色のりぼんやお花などのデザインに包まれている。

「明日な、カウンセリングやんか。この夏のわたしの一大イベント。そやからぜんぶ見したろ思てもってきてん、パンフ。家にはまだようけあって、いちおう見栄えのいいきれいなやつ、もってきた」

 わたしはパンフレットをじっと見た。白衣を着た医者がこんなに小さくても異常に白いということがわかる歯を見せて、ものすごい笑顔でこちらを見ていた。その頭のうえに巨大なフォントで「すべては経験です」と書かれてあった。わたしがじっと見つめていると、そっちはいいからこっち見て、と巻子はお勧めのパンフを手に取って身を乗りだした。

「なんかこれ、美容っぽくなくない?」

 巻子の本命の一冊は、黒くて全体的に光沢のある仕様で、紙質も厚く、ほかのパンフレットにはない、よく言えば高級志向、率直に言えば威圧感があった。文字も金色で印刷されており、女性をターゲットにした美容にありがちな可愛さとか幸せとかきれいといった無難なイメージは皆無で、なんというか「玄人、粋筋」というような硬派かつ夜職全般の悲喜こもごもを思わせるものに仕上がっていた。

 豊胸手術といえば、体にとって繊細な一大事で、痛みとかいろんな心配ごとも多いだろうし、であれば、少しでもふわふわしたような、優しさとか癒やしとか、嘘でもそっちの雰囲気でひとつお願いしたいと思いそうなものなのに、よりによってこんな飲み屋のクラブの黒服みたいなパンフレットを発行しているクリニックに身を預けようと思うのにはどんな理由があるんやろう。そんなことを考えてみても、巻子はわたしの沈黙を無視して話をつづけるのだった。

「豊胸手術についてはわたしあんたにめっちゃ電話で話したけど、もーゆったとおり、めっちゃ種類があるねんな、で、大まかにゆったら選択肢はみっつやったやん。覚えてる?」

 覚えてない、と即答しそうになるのをこらえてあいまいに肯くわたしに、巻子は言った。

「ひとつめは、シリコン。ふたつめはヒアルロン酸。みっつめは自分の脂肪を抜いてそれを使って膨らますって方法。やっぱシリコン入れるのがいちばん人気でいちばん多くていちばん実績あるねんけど、これがいっちゃん高いねん。シリコンって、これな、これみたいに」

 巻子は黒光りするパンフレットに一列にならんだ肌色のシリコンの写真を、爪先でばしばしと打った。

「このバッグっていうのも、いろいろあるねん。これ見したかってん。ようけ種類があって、病院によって言うことがちょっとずつちゃうこともあって、なかなか難しいところはあるねんけどな。いっちゃんメジャーなやつはこれ。シリコンジェルってやつで、つぎが、コヒーシブバッグ。コーヒーちゃうで、コヒーシブバッグな、これはなかで漏れたりせえへんようにジェルと比べてちょっと硬いねんけども、万が一なんかあって破れても安全といえば安全やねんけど、場合によっては見ためがちょっと、まあ硬いからな、不自然って意見もあるみたい。

 で、あとは生理食塩水。これのいいところは、あとで食塩水を入れて膨らますから、袋を入れるときに体を切んのがちょっとで済むってとこ。でもシリコンやな、今の主流は。もう。シリコンが出てきてからは、もうほとんどやる人おらんということやった。んで、ほんまにめっさ考えた結果、わたしはシリコンジェルにしようかと思ってるねん。んで、わたしのやりたい病院では、百五十万。両胸でな。で、そのほかに麻酔とか、全身麻酔とかにするんやったらそれにプラス、十万円とか」

 話し終わると巻子は、「どう」みたいな顔して、わたしの顔をじいっと見た。最初はなんでそんなにじっと見んねやろと不思議に思ってわたしも巻子の顔を見ていたが、そうか、巻子は何かしらの感想を待っているのだということに気がついて、「ああ、すごかった」と笑ってみた。それでもまだじっと見るので、「でもま、百五十万円って、めさくさ高いよな」と追加で感嘆してみせた。それは率直な感想というか事実だったのだけれど、しかしそのすぐあと—もしかしてわたし余計なことゆうてもうたんちゃうん、という考えが頭をよぎった。

 というのもじっさいのところ、百五十万円は高い。高いというよりはありえないし、わたしにも巻子にもどうしたって関係ない金額というか、まったく現実味のないお金。百五十万とか巻子は何を意味不明なことを言うてるのんかと思うのだけれど、しかしさっきの言いかたでは、巻子の胸に百五十万円は高い—つまり「巻子とか、巻子の胸に百五十万円をかける価値ってないんじゃないの」と言ったように受けとられたのではないかと思ったのだ。もちろんある意味ではそうなのだけれど、しかし—わたしはわざとらしくないふうを装って話をつづけた。

「いやー、でもどうかな……百五十万円はすごいけど、でも体のことやもんな。保険とか利かんもんな。大事なことやもんな—うん、高くないかも!」

「わかってくれる」と巻子は目を細めて静かに肯き、心なしか優しい声で話をつづけた。「そう……たとえばな、夏ちゃん。こっちのほれ、パンフレットにはキャンペーン価格とかゆって四十五万円とかって書いてるやろ。でもな、じっさいに行って話きいたらそんな安くはないものなのよ。そのままの値段ではできないのよ。まず来てもらおうって作戦でね、なんやかんやが上乗せされて、あんまり変わらん値段になるの。それにキャンペーンっていうのは先生を指名できない仕組みになってて若手にまわされることも多いし、総合的にみたらいろいろあるのよ……豊胸の道のりは、成功への道のりは、遠いもんやのよ」

 巻子はしみじみ言ってしばらく目を閉じ、それからぱっと見ひらいた。

「んで、調べに調べた結果、ここがいちばん良かってん! 豊胸は、けっこう失敗あるから。地方とかさ、選択肢がないから地元でやる人も多いねんけど、やっぱ患者の数が違うから。経験やから。経験がすべてやから。で、失敗した人がやり直したり、初めから知ってたらまじでぜったい何があってもここに来てたわってみんな口をそろえて言うのが、ここやねん」

「なるほど……でも巻ちゃん、こっちのこれはなに。こっちのパンフ、ヒルロ……ちゃうなヒアルロン酸か、これ注射って書いてんで。体に自然とも書いてる。注射やったら切ったり縫ったりとかないんちゃうん、これはあかんの」

「ああ、ヒアルロン酸なんかもつかいな」巻子は唇をへの字にもちあげた。「あんなもん、すぐに吸収されてなくなって終わりや。それで八十万とか、ないない。ないやろ。まあまあまあ夏子が言うとおりこれは傷も残らんしそんなに痛くもないし、永久に膨らんだままでおってくれたら最高ハッピー言うことないけど、これはモデルとか芸能人とかね。グラビアとかの。そういうガッと決めなあかんとき用やね。ヒアルロン酸は高い域やわ」


お知らせ

明日発売の「文學界」8月号、特集は「川上未映子 真夏の出来事」。新作『夏物語』についてたっぷり語ったインタビュー(聞き手・鴻巣友季子さん)の他、執筆陣は桐野夏生さん、永井均さん、村上春樹さん、青柳いづみさん、江國香織さん、野崎歓さん、荒川洋治さん、岸政彦さんほか。豪華保存版です!

「川上未映子さん トーク&サイン会 『反出生主義は可能か~シオラン、ベネター、善百合子』」《ゲスト・永井均さん》8月3日14時から、丸善・丸の内本店 3F日経セミナールームにて

人が人を生み、つくること。それは善なのか、悪なのか—。『夏物語』で、この世界へ生まれてくることの意味を読む者に深く問いかける川上未映子さん。哲学者の永井均先生との対話を通じて反出生主義をめぐる議論、存在することの善悪の根源に迫ります(参加方法はこちら)。

『夏物語』刊行を記念して、川上未映子さんのサイン会が開催されます! 【大阪】7月13日14時から、紀伊國屋書店 梅田本店にて(参加方法はこちら)。【東京】7月26日18時半から、ジュンク堂書店 池袋本店にて(参加方法はこちら)。

人生のすべてを大きく包み込む、泣き笑いの大長編

夏物語

川上 未映子
文藝春秋
2019-07-11

この連載について

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夏物語 第一部

川上未映子

芥川賞受賞作『乳と卵』の登場人物たちが、あらたに織りなす大長編『夏物語』。7月11日の発売を前に、第一部を全文公開。この物語には、人が生まれて生きて、そしていなくなることの、すべてがある。(平日毎日更新)

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