PHOTO:SHINTO TAKESHI
第8回 よりよい美しさを求めて
「わたし、豊胸手術うけよ思てんねんけども」
宣言のような報告のような、そんな電話が巻子からかかってきたのは、今から三ヶ月くらいまえのこと。
最初は「それについて、どう思うか」というのが巻子の基本的な姿勢だったのだけれど、週に三度、巻子の仕事が終わった深夜一時過ぎ頃に定期的にかかってくるようになってからは、だんだん様子が変わっていった。わたしの感想や意見を聞く気なんか最初っからないのだというような具合とテンションになり、とにかくどこまでも切れめなく一方的に、豊胸手術について話しつづけるようになったのだった。
「手術をして、胸を膨らます」と「果たしてそんなことが自分にできるのか」——このふたつが、豊胸手術にかんする巻子の二大トピックであるようだった。
わたしが上京してからのこの十年のあいだ、深夜に電話がかかってくることも、ましてや定期的に長電話をするなんてことは滅多になかったのに、「豊胸手術うけよ思てんねんけど」などといきなり言われたせいで面食らい、思わず「ええやん」などと返してしまった。
しかし巻子はその「ええやん」にもたいした注意を払わず、それ以降はただあいづちを打つしかないわたしにむかって、現在の豊胸手術の方法、費用、痛みの有無、ダウンタイムと言われる術後の経過などなどについてえんえん話しつづけた。ときには「できると思う、できるはず。わたしはやろ思てんねん」などと力強い決心なども織りこみながら自分を鼓舞し、ほかには新たに手に入れた情報をその日の終わりに自分自身にむかって整理する、というようなあんばいでもって、とにかくしゃべりつづけるのだった。
そんな巻子の明るいようにも聞こえる声に肯きながら、わたしは巻子がいったいどのような胸をしていたのかを思いだしてみようとした。けれど無理だった。いま現在、ここにくっついているはずの自分の胸でさえ思い浮かべることもできないのだから、それはまあ当然といえば当然のことではあった。
そんなだから巻子がいくら熱心に豊胸手術について説明し、思いをしゃべりつづけようとも、巻子とおっぱい、そして豊胸手術、というそれぞれがいつまでたってもうまくつながらず、巻子の話を聞けば聞くほど「わたしはいま、いったい誰の胸について、誰と話をしているのか。そしていったい、なんのために」というような、不安とも退屈とも違うなんともいえない気持ちになるのだった。
緑子とうまくいっていない——そのことについてはその数ヶ月まえには聞いていたので、話が「豊胸の無限ループ」に入ってしまうと「そういえば緑子は」とわたしのほうからもちかけてみることもあった。
しかし、そうすると巻子は声のトーンを少し落として、「うん、まあ、だいじょうぶ」とだけ言って、あきらかにその話題を避ける感じになった。わたしにしてみれば、巻子が電話口で話す豊胸手術についてなどより、今年四十歳になる巻子のこれからの生活のことや、お金のこと、それからもちろん緑子のことについて、いくらでもどこまでも考えることがあるはずで、言うまでもなくそれらが先決やろという思いがあった。
けれどべつに誰の世話をするでもなく、東京でひとり自分のためだけに生きている自分が、誰かにそんな偉そうなことを言える立場でもないというのもわかっているので、強いことは何も言えない。緑子との生活についてはそんなもの、巻子自身がいちばん懸念しているに決まっているのだ。
金があれば。最低限の保障のある、昼間の定職があれば。巻子だって好きこのんで夜中に酒場に働きにでかけ、小学生の緑子に、アパートでひとりの時間を過ごさせているわけではない。金のためとはいえ、ときに酔っ払った姿を好きで娘に見せているわけではない。何かあったとき、緊急のときのためにいつでも駆けつけてくれる友人の家が近くにあることを心のお守りとして、巻子も仕方なく今の生活を生きているのだ。
しかし、いくら仕方のないことにまみれているとはいえ、これから先、巻子と緑子がどうやっていくのかということについて心配しないでいい、ということにはやっぱりならない。たとえば夜。これから先も、今とおなじように夜の時間帯を緑子にひとりで過ごさせるということはよくない。これは決定的によくない。全方位的に、よくない。この状況はすぐにでも改善しなければならないはずだった。ではそれを改善するために、どうしたらよいのか。
手に職のない巻子。バイト生活の妹であるわたし。これからお金が必要なまだ子どもの緑子。なんの保障もない生活。庇護者親戚、ともにゼロ。玉の輿とかで一発逆転の可能性ゼロ。どころかマイナス。宝くじ。生活保護——。
わたしが上京してすぐの頃、生活保護については巻子と一度、話しあったことがある。巻子が原因不明のめまいで倒れて、もしかしたら何か重大な病気があるのではないかと不安に過ごした日々があったのだ。検査のために病院にかかっているあいだは体調が優れず、店に出ることもできなかったので収入が途絶え、わたしたちは当面の生活とこれからについて話しあわなければならなかった。
そこでわたしから「っていうか生活保護って手もあるのでは?」とあくまで可能性のひとつとして提案してみたのだけれど、巻子はこれを頑として受けつけなかった。それどころか、そんなことを勧めてくるなんてと巻子はわたしを糾弾し、最後はかなり激しい言いあいにもなった。
どうやら巻子のなかで「生活保護を受ける」というのは、生き恥をさらすも同然、というような感覚があるらしく、そんなことまでして、もっといえば国や他人に迷惑をかけてまで生きてはいけないのだというような——何か人間としての在りかたや人としての誇りを傷つけるようなものとして認識されているらしいのだった。
それは違う、生活保護なんていうのはただのお金で、恥とか迷惑とか誇りとか、そういったこととは関係がない、国や他人は個人の生活を守るためにあるんやから困ったときは堂々と申請すればいいのや、それがわたしらの権利なんやとわたしがいくら説明しても、巻子は聞き入れなかった。そんなことをしたらこれまでしてきた苦労が無駄になる、と巻子は泣きながら言った。
わたしらは誰にも迷惑かけんと、朝も夜も一生懸命働いてここまでずっとやってきたと巻子は泣いた。わたしは説得することをあきらめた。検査の結果、幸いなことに巻子の体に異常はみられず、店に頼んで前借りした金を生活費にまわし、なんとなくいつもの日常に戻っていった。もちろん何かが根本的に解決したわけでもなんでもない。
「わたしが行こ思てるとこは、ここ」
鞄から取りだしたパンフレットはぶあつい束になっており、いちばんうえにあったものを見せながら巻子は言った。
「大阪でも、いろんなとこいって話聞いて、こんだけ集めたけど、第一希望はここになった」
お知らせ
「川上未映子さん トーク&サイン会 『反出生主義は可能か~シオラン、ベネター、善百合子』」《ゲスト・永井均さん》8月3日14時から、丸善・丸の内本店 3F日経セミナールームにて
人が人を生み、つくること。それは善なのか、悪なのか——。『夏物語』で、この世界へ生まれてくることの意味を読む者に深く問いかける川上未映子さん。哲学者の永井均先生との対話を通じて反出生主義をめぐる議論、存在することの善悪の根源に迫ります(参加方法はこちら)。
『夏物語』刊行を記念して、川上未映子さんのサイン会が開催されます! 【大阪】7月13日14時から、紀伊國屋書店 梅田本店にて(参加方法はこちら)。【東京】7月26日18時半から、ジュンク堂書店 池袋本店にて(参加方法はこちら)。