夏物語 第一部

緑子が隣にやってきてノートを見せた

太陽の熱が肌をじりじりと焼いていく真夏の道を歩きつづけ、やっとの思いで三ノ輪のアパートに辿り着いたわたしたち。テレビをつけると、女子大生が刺された事件が報じられていた――。芥川賞受賞作『乳と卵』の登場人物たちが、あらたに織りなす大長編『夏物語』。7月11日の発売を前に、第一部を全文公開。この物語には、人が生まれて生きて、そしていなくなることの、すべてがある。(平日毎日更新)

PHOTO:SHINTO TAKESHI

第7回 緑子が隣にやってきてノートを見せた

 たしか先々週には、新宿御苑のゴミ箱に女性のものらしき身体の一部が見つかるという事件が起きていた。しばらくして、それが数ヶ月まえから行方がわからなくなっていた七十歳の女性であることがわかり、ほどなく近所に住む十九歳の無職の男が逮捕された。彼女は都内の古いマンションに長く一人暮らしをしている身寄りのない老人で、メディアはこのふたりの接点や動機について、あれこれ騒ぎたてていた。

「あれやん、おばあちゃんが殺されたんやんか。バラバラにされて」

「せや、御苑のゴミ箱に」わたしは言った。

「御苑てどんなとこ」

「なんかめっさ広い公園というか」

「あれ、犯人て若い男やったよな」巻子が顔をしかめて言った。「んで殺されたんて、七十歳とかじゃなかった? ちゃう? もうちょっとうえ?」巻子は少し考えるようにして言った。「—ちょおちょお待って。七十ゆうたらコミばあが死んだ年とおなじやん」

 巻子は自分の言ったことにあらためて驚いたような声をあげ、目を大きく見ひらいた。

「っていうか、たしか、強姦とかされてなかった?」

「されてたはず」

「こわいねんけど。信じられんわ、コミばあやで。そんなんありかいな」巻子は喉の奥で低くうなった。

 コミばあとおない年—たぶん一時間もすればこの事件のことだってほかの事件同様に忘れてしまうんだろうけれど、「コミばあとおない年」という巻子の言葉が、しばらく頭から離れなかった。コミばあ。コミばあが死んだとき、コミばあはもうどこからどうみても老人だった。

 癌がわかって入院してからはもちろんのこと、まだ元気なときでさえ、コミばあはどこからどうみても完全に老人だった。というかわたしの記憶のなかにいるコミばあは、最初から最後までおばあちゃんという存在だった。当然のことながら性的なものを感じさせる要素なんてただの一滴もなかったし、またそんなものが入りこむ余地はただの一ミリも存在しなかった。老人。れっきとした、おばあちゃん。

 もちろん殺された七十歳の被害者がどんな人だったのかはわからないし、年齢と個人の傾向というものがときとして無関係だということもあるだろう。殺された被害者がコミばあとおなじじゃないことはわかっているけど、しかしわたしのなかで被害者が七十歳であることでコミばあと結びつき、そうするとコミばあと強姦というものがやっぱりどうにも結びついて、なんとも複雑な気持ちになるのだった。

 七十歳まで生きて、最後は自分の孫のような年齢の男に強姦されてこんなふうに殺されるなんてこと—彼女はこれまでの人生でたぶん想像したことすらなかっただろうし、その瞬間でさえ自分の身に起きていることをうまく理解できなかったんじゃないだろうか。司会者が悲痛な表情のまま挨拶をして番組が終わり、コマーシャルがいくつか流れたあと、ドラマの再放送が始まった。


◯ ナプキンをずっとうらむけに使ってたことがわかった、と言って純ちゃんがもりあがった。うそ、とくにもりあがったってこともないし、わたしにはちょっとわからんところがあるけど、ナプキンにはテープの面があって、それをずっと自分のほうにあててたらしい。知らんかったらしい。吸収が悪い、はじくなあってずっと困ってたらしい。テープっかわをあそこにつけたらはがすとき、痛いやろう。それってまちがえるくらい、わかりにくいもんなんやろか。

 ナプキンをみたことないと言ったら、家にいっぱあるからみしたるわと純ちゃんが言うので、今日は帰りに純ちゃんちに遊びにいった。トイレの棚にはパンパースみたいな大きさでナプキンがほんまにだんだんにつまれてあった。うちの家にはない。厭やけど、予習の意味で便座にのってみてみたら、いろんな種類のいろんなんがめっさあって、特売のシールはられすぎ。

 生理になるのは、卵子が受精しなかったからで、ほんまは受精した卵子を受けとめて育てるために準備されてたクッションみたいなものが血と一緒に流れるから、というような話を純ちゃんとした。そしたら、なんと。受精をしてない無精卵が、血のなかにあるのかと思って、純ちゃんは先月、自分のナプキンをちょっとさいてみてみたらしい。なんと。わたしはびっくりしてどうやった、となんとも厭めいた気持ちできいたけど、純ちゃんはまったく問題なし。

 ナプキンのなかにはこまかいつぶつぶがひしめいてて、それが血で赤くいっこいっこふくらんでるだけやったと。いくらみたいな感じで? ってきいたら、それのめさんこめさんこちっさい版、とのこと。そういうわけで無精卵があったんかどうかはどんなけようみてもわからんかったらしい。

緑子


 台所へ行って新しい麦茶を作るために寸胴鍋に湯を沸かしていると、緑子が隣にやってきてノートを見せた。

〈探検いってくる〉

「探検てなに」

〈さんぽ〉

「いいけど、巻ちゃんに訊かなあかんのちゃう」

 緑子は肩をすくめてみせ、鼻で小さく息をついた。

「巻ちゃん、緑子がちょっと散歩してくるって。ええ?」

「ええけど、わかるん家。迷子ならん?」巻子が部屋のなかから返事をした。

〈まわり、歩いてくるだけ〉

「この暑いのに歩いて何するん」

〈たんけん〉

「まあええわ、ほんなら念のために、わたしの電話もっていっといて。そうや、さっき通ったスーパーの隣に本屋あんで。その隣はファンシーショップ、もうファンシーショップとはゆわんか、雑貨屋か、文房具とかいろいろ置いてるお店あるからみてきたら。こんな日に外におりすぎたら鉄板焼きみたいになるからな。あと、リダイヤルここな。ここ押したら巻ちゃんにかかるからな」わたしの説明に緑子は肯いた。

「変な人が声かけてきたら走りや、ほんで、すぐに電話かけるんやで。なるはやで帰ってきてや」

 ばたんとドアを閉めて緑子が行ってしまうと—緑子はひとことも声を発していないにもかかわらず、なんだかさっきよりも部屋のなかがしんとして感じられた。緑子が鉄の階段を降りていく音がごんごんと響いている。その音が遠ざかり、やがて完全に消えてしまうと—巻子はまるでそれを待っていたのだというようにひょいと体を起こして座り直し、テレビを消した。

「電話でゆうたとおりやろ、緑子ずっとあんな感じやわ」

「けっこう気合入ってんな」わたしは感心して言った。「半年て。学校では普通にやってんねやろ」

「うん。夏休みまえな、学期終わりで担任の先生に訊いたら、学校では先生とも、友だちともまったく問題ないって。わたしからちょっと話してみましょうか、ってゆうてくれはったけど、そういうの緑子いややろうし、ひきつづき様子みますって返事してん」

「せやな」

「誰に似たんか、頑固なとこあるみたい」

「巻ちゃんはそんな頑固じゃないと思うけど」

「そうかなあ。でもあんたとはしゃべるかなあと思ったけど、紙やな」

 巻子は自分のボストンバッグをずりずりと引き寄せるとファスナーをあけてなかに手を入れ、底のほうからA4サイズの封筒を取りだした。

「まあそれはさておき」と巻子は小さく咳払いをした。「夏ちゃん、これやねん。電話でゆうてたやつ」

 そう言いながら巻子は、そこそこの厚みのあるしっかりした封筒のなかから束になったパンフレットを丁寧に取りだし、ちゃぶ台のうえにそっと置いた。そしてわたしの顔をじっと見た。目があった瞬間、そうやった、とわたしは反射的に今回の巻子の上京の目的を思いだした。巻子がパンフレットに両手をのせて姿勢を正すと、ちゃぶ台がぎしっと音をたてた。


お知らせ

「川上未映子さん トーク&サイン会 『反出生主義は可能か~シオラン、ベネター、善百合子』」《ゲスト・永井均さん》8月3日14時から、丸善・丸の内本店 3F日経セミナールームにて

人が人を生み、つくること。それは善なのか、悪なのか—。『夏物語』で、この世界へ生まれてくることの意味を読む者に深く問いかける川上未映子さん。哲学者の永井均先生との対話を通じて反出生主義をめぐる議論、存在することの善悪の根源に迫ります(参加方法はこちら)。

『夏物語』刊行を記念して、川上未映子さんのサイン会が開催されます! 【大阪】7月13日14時から、紀伊國屋書店 梅田本店にて(参加方法はこちら)。【東京】7月26日18時半から、ジュンク堂書店 池袋本店にて(参加方法はこちら)。ご予約、お申し込みをお待ちしております!


人生のすべてを大きく包み込む、泣き笑いの大長編

夏物語

川上 未映子
文藝春秋
2019-07-11

この連載について

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夏物語 第一部

川上未映子

芥川賞受賞作『乳と卵』の登場人物たちが、あらたに織りなす大長編『夏物語』。7月11日の発売を前に、第一部を全文公開。この物語には、人が生まれて生きて、そしていなくなることの、すべてがある。(平日毎日更新)

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