PHOTO:SHINTO TAKESHI
第6回 真夏の三ノ輪のアパートで
アパートの最寄り駅である三ノ輪駅に着いたのは、午後二時を少しまわった頃。途中でひとり二百十円の立ち食いそばを食べ、すべてを塗り潰していくような勢いで蝉が鳴き叫ぶなか、わたしたちは駅から十分ほどの道を歩きつづけた。
「あんた、家から来てくれたん」
「いんや、今日はちょっと用事あってべつんとこから。この坂こえてまっすぐ」
「歩くのもいいね。ええ運動になって」
最初は会話しながら笑う余裕のあった巻子もわたしも、あまりの暑さにだんだん無言になっていった。ひっきりなしに鳴く蝉の声が耳のなかにこびりつき、太陽の熱が肌をじりじりと焼いていった。屋根の瓦や、街路樹の葉やマンホールなんかが夏の白い光を吸って、輝けば輝くほど目の奥が暗くなっていくような気がした。わたしたちは流れる汗で全身を濡らしながら、やっとの思いでアパートに辿り着いた。
「着いたで」
巻子は息を大きくひとつ吐き、緑子は入り口の脇にある植木鉢のあたりにしゃがみこんで、名前を知らない植物の葉に顔を近づけた。そして腰に巻いていたウエストポーチから小さなノートを取りだして、そこに、〈これだれの〉と書いた。緑子の字は思いがけず肉厚で筆圧も強く、まるで壁に書かれた大きな文字を眺めるような印象を与えた。そしてまだ緑子が赤ん坊だった頃——ただそこで息をしているだけの嘘みたいに小さな赤ん坊が、いつか自分で用を足したり物を食べたり字を書いたりするようになるなんて信じられないと思ったことを思いだした。
「誰のか知らんけど、たぶん誰かの。わたしの部屋は二階な。あの窓。ここ階段あがっていって、左っかわのドアな」
わたしたちは一列になって、ところどころ錆の浮いた鉄製の階段を順番にあがっていった。
「狭いけど、どうぞ」
「いい部屋やん」
巻子はミュールを脱ぐと、なかを覗きこむように身をかがめ、明るい声で言った。
「ザ・一人暮らしって感じの部屋! ええなあ。お邪魔します」
緑子も黙ったままあとにつづき、奥にある部屋に入っていった。四畳の台所と六畳の二間がつづきになっているこのアパートには上京したときから住んでいて、今年で十年になる。
「絨毯しいてんの。もともとは? まさかフローリング?」
「ううん、畳。来たときすでに古かったから、うえから敷いてん」
わたしは一気に噴きだす汗を手の甲でぬぐいながら、エアコンをつけ、室温を二十二度に設定した。壁に立てかけておいた折りたたみ式のちゃぶ台を出し、今日のために近所の雑貨屋で買っておいたそろいのガラスコップをみっつならべた。薄いむらさきの小さな葡萄が細工されてある。冷蔵庫から冷やしておいた麦茶をもってきてコップになみなみ注ぐと、巻子と緑子は喉を鳴らして一息でそれを飲み干した。
生き返ったわあ、と言いながら巻子は大きく後ろにのけぞり、わたしは部屋の隅にあったビーズクッションを渡してやった。緑子は背負っていたリュックを部屋の隅っこに下ろすと立ちあがり、珍しいものでも見るようにきょろきょろと部屋のなかを見まわした。必要最低限の家具しかない狭くて簡素な部屋だけれど、緑子は本棚に興味をもったようだった。
「本めっさ多いやろ」と巻子が割りこんで言った。
「多ないよ」
「だってほれ、こっちの壁ほとんど本やんか、これで何冊くらいあるのん」
「数えたことないけど、でもべつに多いってことはないで。普通やで」
本を読む習慣がまったくない巻子にとっては大量の本があるようにみえるかもしれないけれど、じっさいのところそんなに多くはないのだ。
「そんなもんなん」
「そんなもんやで」
「きょうだいでもちゃうもんやね。わたしなんかぜんぜん興味ないのに。そうや、緑子も本好きやねんで。国語も、なあ緑子」
緑子は巻子の呼びかけには答えずに、本棚に顔を近づけて背表紙のひとつひとつに見入っている。
「なあ、着いて早々でごめんけど、ちょっとシャワー借りてもいい?」巻子は頬に張りついた髪を指先で払いながら言った。
「どうぞ、ドア左な。一応トイレとはべつべつやねん」
巻子がシャワーを浴びているあいだ、緑子はずっと本棚を眺めていた。背中は大量の汗で湿り、紺色のティーシャツはほとんど黒に変色していた。着替えへんでいいんと訊くと、少ししてから平気だというように肯いた。
そんなふうに緑子の後ろ姿を眺め、風呂場から漏れてくるシャワーの音を聞くともなしに聞いていると、何も変わらないはずのこの部屋の雰囲気がいつもと少しだけ違って感じられるような気がした。それはまるで、昔からある写真立てのなかの写真だけがいつのまにか変えられているのに、そのことになかなか気がつけないでいるような違和感だった。わたしは麦茶を飲みながら、しばらくのあいだその違和感について考えてみた。けれどそれがどこからやってくるものかは、わからないままだった。
首のゆるんだティーシャツとゆるめのスウェットを穿いて、タオル借りましたあ、と言いながら巻子が戻ってきた。お湯の勢いすっごいなあ、と言いながら髪をばんばんタオルで挟みぶきしている巻子の顔からは化粧がすっかり落ちていて、それを見たわたしの気持ちは少しだけ明るくなった。今日初めて会ったときに巻子の容貌にたいして感じたことが、じつはそうでもなかったんやないの、となんとなく思えたからだ。
さっぱりして、さっきはあんなに痩せてしまったと思ったけれど、でもべつにそれは言うほどじゃなかったのかもしれない。顔だって、ファンデーションの色と量が明らかにおかしかったからあんなふうにみえただけで、じつはそんなに変わっていなかったのかもしれない。ぎょっとしたのはたんに巻子の顔を見るのが久しぶりすぎて、わたしが過剰に反応してしまっただけなのかもしれなかった。あるいは目が慣れただけかもと思ったけれど、でも年相応といえば普通に年相応でもあるような気がしはじめて——そう感じられたことにわたしは少なからずほっとしたのだった。
「これ、ちょっと干さしてもらっていい? ベランダは?」
「この部屋ベランダないねん」
「ないん」巻子は驚いたように訊きかえし、その声に緑子もふりかえった。「ベランダないってどういう部屋よ」
「こういう部屋よ」とわたしは笑った。「窓あけたら柵やからな、落ちんといてや」
「洗濯物はどうするん」
「うえに屋上あって、そこに干すねん。あとで行ってみる? もうちょっと涼しなったら」
へえとか何とか言いながら巻子はあいづちを打ち、テレビのリモコンに手を伸ばしてテレビをつけ、適当にチャンネルを変えていった。料理番組、通販番組ときてつぎにワイドショーに移ると、画面全体が何か大変な事件が起きたのだとすぐにわかるテンションになっており、マイクをにぎった女性リポーターが真剣な顔つきでこちらにむかって熱心にしゃべりつづけていた。背後は住宅街で、緊急車両や警察官やビニールシートなんかが映りこんでいる。
「なんかあったけ」巻子が言った。
「わからん」
今朝、杉並区に住む女子大生が自宅付近で、男に顔や首、胸や腹——つまり全身をめった刺しにされる事件が起こり、現在は病院に収容されているが心肺停止の重体であるとリポーターは伝えていた。そして事件発生から約一時間後に、最寄りの警察署に自首してきた二十代の男が何らかの事情を知るものとして聴取を受けている最中だと説明し、その報道のあいだじゅう、画面の左うえのほうには刺された女子大生の写真が本名とともに大きく映しだされていた。
「あそこに、生々しい血のあとが残されています」とリポーターがときどきふりかえりながら、緊迫した様子で伝えていた。進入禁止の黄色いテープが見え、野次馬たちが携帯電話のカメラをむけている姿がちらほらと映りこんでいる、いや可愛い子、と巻子が小さな声でつぶやいた。
「まえも、なんかあったよな」
「あったな」わたしは答えた。
お知らせ
『夏物語』刊行を記念して、東京でも、川上未映子さんのサイン会が開催されます! 【東京】7月26日18時半から、ジュンク堂書店 池袋本店にて(参加方法はこちら)。
大阪は、7月13日14時から、紀伊國屋書店 梅田本店にて(参加方法はこちら)。ご予約、お申し込みをお待ちしています。