PHOTO:SHINTO TAKESHI
第4回 緑子が、巻子と口をきかなくなってから半年がたつ
約束の時間を十分近く過ぎても、巻子と緑子は待ちあわせの場所にやってこなかった。電話をかけてみても巻子は出ず、とくにメールも来ていない。迷っているんだろうか。五分待ってもう一度かけてみようとしたときに、メールの受信音がころころと鳴った。
〈どこから出たらいいのかわからんから、おりたとこのホームにいます〉
わたしは電光掲示板で巻子たちが乗ってきたはずの新幹線の号数を確認し、券売機で入場券を買って、改札のなかに入った。エスカレーターで地上に出ると、まるで蒸し風呂のような八月の熱気がやってきて、汗がぶわりと噴きだした。つぎの列車の到着を待つ人や、売店のまえにいる買い物客たちをよけながら進んでいくと、三号車あたりにあるベンチにふたりの姿がみえた。
「あー、ひさしぶり」
巻子はわたしを見つけると嬉しそうに笑い、わたしもつられて笑った。隣に座る緑子はひとめ見た瞬間に、わたしの知っている緑子から倍くらいの大きさになったような気がするほどに成長しており、わたしは思わず声をあげた。
「ちょっと緑子、あんた何この脚」
髪の毛を高い位置でポニーテールにきゅっとくくり、紺色の無地の丸首のティーシャツを着た緑子は半ズボンを穿いていた。そこからまっすぐに伸びた脚は——浅く腰かけていたせいもあると思うけれど、ちょっと異様なほど長くみえ、わたしはぺちんと膝を叩いた。反射的に緑子は、照れたような困ったような顔をしてこちらを見たけれど、な、すごいやろ、こんな大きなってびっくりやろ、と巻子が割って入ってくると、とたんに不機嫌な顔をして目をそらし、脇に置いてあった自分のリュックサックを引き寄せて抱えるようにもたれかかった。巻子はわたしの顔を見て、呆れた顔をつくって小さく首をふり、な、というように肩をすくめてみせた。
緑子が、巻子と口をきかなくなってから半年がたつ。
理由はわからない。ある日とつぜん、巻子が話しかけても返事をしなくなったのらしい。もしかすると心因性の病気か何かではないかと最初は心配もしたけれど、しかし緑子は口をきかないほかは食欲も旺盛で、小学校にも普通にかよい、友人や教師とは変わらずに話をして、これまでとおなじように問題なく生活を送っていた。つまり、緑子は家でだけ巻子とだけ話すことを拒否しているのであり、これは意図的なふるまいなのだった。どれだけ丁寧に、巻子があの手この手でその理由を訊きだそうとしても、緑子は頑として答えようとしなかった。
「わたしら最近、も、筆談っていうの、ペン書きやねんでペン書き」
緑子が黙り始めたばかりの頃、巻子は電話でため息をつきながら説明した。
「ペンてなに」
「ペンはペンやん、筆談やん。しゃべらんの。いや、わたしはしゃべるよ。しゃべるけれども、緑子はペンよ。しゃべらんの。も、ずーっと。もうひと月近くになるんやない」と巻子は言った。
「ひと月って、長いな」
「まあ、長いな」
「長いで」
「わたしも初めのほうはいろいろ訊いたりなんだりやったけど、ずっとおんなじ調子やねん。きっかけがあったんかもしれんけど、どんだけ訊いても答えてくれんのやわ。しゃべってくれんのや。怒ってもしゃあないし、困ってるけどさ、わたし以外とはちゃんとしゃべってるみたいやし……何かそういう時期っていうか、親にたいしていろいろ思うところがあるんかもしれんと思ってな。でもま、こんなん長くはつづかんやろ、いけるいける、だいじょうぶ」
電話越しに巻子は明るく笑ってみせたけれど、あれから半年。ひきつづき、関係はどうも平行線を辿ってるみたいだ。
◯ クラスのほとんどに初潮がきてるらしいけど、今日の保健の時間はそのしくみの話。おなかのなかで何がどうなって血がでるのとか、ナプキンがどうとか、みんなのなかにあるという子宮のおっきい絵をみせられた。最近は、トイレでみんなが一緒になったりすると、生理になってる子らが集まって自分らだけにわかる話、みたいな感じで、あれこれ話してるのをみる。
小さいきんちゃくにナプキンを入れてて、それなに、ってきいたら内緒や、みたいな感じで、生理組にしかわからん話をこそこそ、でもわたしらにもちゃんときこえる感じでする。もちろんまだなってない子もおるんやろうけれど、だいたい仲良いグループのなかでいうと、なってないのはわたしだけのような気がする。
生理がはじまるとはどんな感じか。おなかも痛いというし、何よりも、それが何十年もつづくなんかどういうことなんやろう。そんなんなれるもんなんか。純ちゃんに生理がきたことをわたしが知ってるのんはわたしが純ちゃんからきいたからやけど、でも、考えたら、わたしがまだ生理になってないってことがなんで生理組の子らにわかるんかなぞ。
だって、べつに生理になっても「なった」とか言ってまわるわけじゃないし、みんながみんなきんちゃくをわかるようにもってトイレにおるわけじゃないのに。なんでそういうことってなんとなくわかるようになってるのやろう。
それでちょっと気になって、初潮って言葉を調べてみた。初潮の初、は、それは初めて、ということでわかるけど、うしろにある潮っていうのがようわからん。それで調べたら、いろんな意味があることはあって、たとえばそれは、月と太陽の引力の関係で、海水が満ちたり引いたり、動くこと、ということらしい。ほかには、いい時期、というようなことも書いてあった。
ただいっこだけわからんのが、愛嬌、で、それで愛嬌という言葉を調べたら、商売で客の気を引く、とか、好ましさを感じさせる、とかそういうことが書いてあった。なんでこれが、股のところから血が初めてでる初潮っていうのに関係あるようなふんいきで書かれてるのかさっぱりわからん。むかつく。
緑子
ならんで歩く緑子はわたしよりまだ少しだけ背が低いけれど、しかしわたしよりもはるかに脚が長く、胴が短かった。「これが平成生まれですか」などと言って緑子に話しかけても緑子は面倒くさいような顔をして肯き、わざと足を遅くしてわたしと巻子のあとを歩いた。巻子の細すぎる腕に巻子のもっている古い茶色のボストンバッグがあまりに重そうにみえたので、巻ちゃん荷物もったるわ、と言って何度手を伸ばしても、巻子は、ええよええよと遠慮して、頑なに渡そうとしなかった。
巻子が東京にやってくるのは、わたしが知っている限りこれがおそらく三度目だ。あたりをきょろきょろ見まわしながら、「やっぱり人が多い」とか「駅が広い」とか「東京の子はみんな顔が小さい」などと興奮した様子でしゃべりつづけ、まえからやってくる人にぶつかりそうになると「すんませえん」と大きな声で謝った。わたしは緑子がちゃんとついてきているかどうかを気にしつつ、巻子の話にあいづちを打ちながら適当に返事をしていたのだけれど——しかし内心でどきどきするくらいに気になっていたのは、巻子のその容貌の変化なのだった。
お知らせ
パートナーなしの妊娠、出産を目指す夏子のまえに現れた、精子提供で生まれ「父の顔」を知らない逢沢潤——生命の意味をめぐる真摯な問いを、切ない詩情と泣き笑いに満ちた極上の筆致で描く、21世紀の世界文学。『夏物語』刊行を記念して、川上未映子さんのサイン会が開催されます! 7月13日14時から、紀伊國屋書店梅田本店にて。参加方法は、こちらをご覧ください。