夏物語 第一部

ぜんぶ家に残したまま、わたしたちは暗闇のなかを走っていた

つぎの日も、そのまたつぎの日も父は帰ってこなかった。ある真夜中に、わたしと姉の巻子は「起きや起きや」と母親にゆり起こされてタクシーに乗せられ、そのまま家を逃げだした――。芥川賞受賞作『乳と卵』の登場人物たちが、あらたに織りなす大長編『夏物語』。7月11日の発売を前に、第一部を全文公開。この物語には、人が生まれて生きて、そしていなくなることの、すべてがある。(平日毎日更新)

PHOTO:SHINTO TAKESHI 

第3回 ぜんぶ家に残したまま、わたしたちは暗闇のなかを走っていた

 どうして逃げなければならなかったのか、そんな真夜中にいったいどこにむかっているのか、意味も理由もわからなかった。ずいぶん時間がたったあとでそれとなく母親に水をむけたこともあったけれど、父の話をすることがどこかタブーのようになっていたこともあり、けっきょく母の口からはっきりした答えを聞くことはできなかった。あの夜は訳のわからないまま一晩じゅう暗闇をどこまでも走ったような気がしたけれど、着いたのはおなじ市内の端と端の、電車でゆけば一時間もかからない距離にある、大好きなコミばあの家だった。

 タクシーのなかでは酔って気分が悪くなり、中身を空けた母親の化粧ポーチのなかに吐いてしまった。胃のなかからはたいしたものは出てこず、酸っぱさと一緒になって垂れてくる唾液を手でぬぐい、母親に背中をさすられながら、わたしはずっとランドセルのことを考えていた。火曜日の時間割にあわせた教科書。ノート。シール。いちばん下に入れた自由帳には、何日かをかけて描いてきて昨日の夜やっと完成したお城の絵が挟んである。脇に入れたハーモニカ。横にぶらさげた給食袋。好きな鉛筆やマジックや匂い玉や消しゴムの入った、まだ新しかった筆箱。ラメのキャップ。

 わたしはランドセルが好きだった。夜眠るときは枕もとに置き、歩くときは肩紐をしっかりとにぎりしめ、どんなときも大切にしていた。わたしはランドセルを、身につけることのできる自分だけの部屋のように思っていたのだ。

 でも、わたしはそれを残してきてしまった。大事にしていた白いトレーナーも、人形も、本も、お茶碗もぜんぶ家に残したまま、わたしたちは暗闇のなかを走っていた。たぶんあの家に戻ることはもうないんやろうなとわたしは思った。わたしはわたしのランドセルを背負うこともないし、こたつ机の角っこに筆箱をぴったり置いてノートを広げて字を書くことだってもうないし、あんなふうに鉛筆を削ることも、あのざらざらした壁にもたれて本を読むことも、もう二度とないんやろうなとわたしは思った。そう思うと、とても不思議な気がした。

 頭の一部分がゆるく麻痺したようにぼおっとして、手足にうまく力が入らなかった。このわたしは本当のわたしなのかなとそんなことを漠然と思った。だってさっきのわたしは、朝になればいつもとおなじように目を覚まして学校にゆき、そしていつもとおなじ一日を過ごすと思っていたのだ。さっき眠るために目を閉じたわたしは、まさか自分が数時間後にぜんぶを置いたまま母と巻子とタクシーに乗ってこんなふうに夜のなかを走り、もう戻れなくなるなんて想像することもできなかったのだ。

 窓の外を流れてゆく夜の暗さを見つめていると、何も知らないさっきまでのわたしが、まだ布団のなかで眠っているような気がした。朝になってわたしがいなくなっていることに気づいたわたしは、いったいどうするんだろう。そう思うと急に心細くなってわたしは巻子の腕に自分の肩をしっかりと押しつけた。だんだん眠気がやってきた。下がってくるまぶたの隙間からは、緑色に光る数字がみえた。わたしたちがわたしたちの家から遠ざかるにつれ、その数は音もなく増えつづけた。

 そんなふうに夜逃げ同然で転がりこんでそのまま始まったコミばあとの四人の生活は、しかし長くはつづかなかった。わたしが十五歳のときにコミばあが死に、母はその二年まえ、わたしが十三歳のときに死んでしまった。

 突然ふたりきりになったわたしたちは、仏壇の奥に見つけたコミばあの八万円をお守りとして、そこから働き倒して生きてきた。わたしには母に乳がんが見つかった中学校の初め頃から、コミばあが後を追うように肺腺がんで死んでしまった高校生時代にかけての記憶があんまりない。働くのに忙しすぎたのだ。

 思いだすものといえば、中学校の春、夏、冬の長い休みに年齢をごまかしてバイトに行っていた工場の風景だ。天井からだらんとぶらさがったハンダゴテのコードと火花の音、山と積みあがったダンボール。そしてなんといっても、小学生の頃から出入りしていたスナックだ。母親の友人がやっていた小さな店。母は昼はいくつかのパートをかけもって、夜はその店で働いた。

 高校生の巻子がひとあし先にそこで皿洗いのバイトを始めて、つづいてわたしも厨房に入るようになり、酔っ払った客と彼らを相手にする母を見ながら、酒やつまみを作るようになった。巻子は皿洗いと並行して始めた焼肉屋のバイトで並ならぬ頑張りを見せ、六百円かそこらの時給で月に最高で十二万円の稼ぎを叩きだし(それは店のなかでちょっとした伝説になった)、高校を卒業して数年後には正社員に昇格して、あとは店が潰れるまで働いた。それから妊娠し、緑子を産み、いろんなパートを転々として、三十九歳の今も週五でスナックで働いている。

 いわゆるシングルマザーで働き倒して病気になって死んでいったわたしたちの母親の人生と、ほとんどおなじ人生を巻子も生きているということになるわけだ。



お知らせ

パートナーなしの妊娠、出産を目指す夏子のまえに現れた、精子提供で生まれ「父の顔」を知らない逢沢潤—生命の意味をめぐる真摯な問いを、切ない詩情と泣き笑いに満ちた極上の筆致で描く、21世紀の世界文学。『夏物語』刊行を記念して、川上未映子さんのサイン会が開催されます! 7月13日14時から、紀伊國屋書店梅田本店にて。参加方法は、こちらをご覧ください。

人生のすべてを大きく包み込む、泣き笑いの大長編

夏物語

川上 未映子
文藝春秋
2019-07-11

この連載について

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夏物語 第一部

川上未映子

芥川賞受賞作『乳と卵』の登場人物たちが、あらたに織りなす大長編『夏物語』。7月11日の発売を前に、第一部を全文公開。この物語には、人が生まれて生きて、そしていなくなることの、すべてがある。(平日毎日更新)

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