夏物語 第一部

ある日、学校から帰ると父親がいなかった

2008年、夏。東京駅へやってきたわたし。大阪から、姉の巻子が、もうすぐ12歳になる娘の緑子を連れてやってくる。大事な本を背中にかついで上京して10年、作家への夢は未だかなわないけれども――。芥川賞受賞作『乳と卵』の登場人物たちが、あらたに織りなす大長編『夏物語』。7月11日の発売を前に、第一部を全文公開。この物語には、人が生まれて生きて、そしていなくなることの、すべてがある。(平日毎日更新)

PHOTO:SHINTO TAKESHI

第2回 ある日、学校から帰ると父親がいなかった

◯ 卵子にはなぜ、子という字がつくのかというと、それは精子、に子という字がついているから、それにあわせただけなのです。これは、今日いちばんのわたしの発見。図書室には何回か行ってみたけど本を借りるための手つづきとかがややこしくって、だいたい本が少ないしせまいし暗いし、何の本を読んでいるのかのぞかれることもあるので、さっとかくす。最近はちゃんとした図書館に行くようにしてる。パソコンもみれるし、それに学校はしんどい。あほらしい。いろんなことが。あほらしいとこんなふうに書くことがあほらしいけど、学校のことはべつに勝手にすぎていくことやからいい、けど、家のことは勝手にはすぎていかないので、ふたつのことは思えない。書くということは、ペンと紙があったらどこでもできるし、ただやし、何でも書ける。これはとてもいい方法。いや、という字には厭と嫌があって、厭のほうがほんまにいやな感じがあるので、厭を練習。厭、厭。  

緑子

今日、大阪からやってくる巻子はわたしの姉で、わたしよりも九歳年うえの三十九歳。緑子というもうすぐ十二歳になる娘がいる。二十七歳のときに産んだ緑子を、巻子はひとりで育てている。

 わたしが十八歳だった頃から数年間、巻子と産まれたばかりの緑子の三人で大阪市内のアパートで一緒に暮らしていたことがある。というのも緑子が生まれるまえに巻子は夫と別れてしまったからで、主に人手不足と経済的な理由から、頻繁に行き来するうちに三人で生活したほうが早いということになったのだ。だから緑子は自分の父親に会ったことはないし、その後、会ったという話も聞いたことがない。緑子は自分の父親のことを何も知らないまま大きくなった。

 巻子が夫と別れた理由は今もよくわからない。当時、離婚や元夫について巻子といろいろ話したことは覚えているし、それはあかんな、と思ったことじたいは覚えているけれど、そのあかんな、というのが何にたいしてだったのか具体的なところが思いだせない。巻子の元夫は東京生まれの東京育ちで、仕事で大阪に越してきたところ、巻子と出会ってわりとすぐに緑子ができたのではなかったか。当時の大阪では人がじっさいにしゃべるのを聞いたことのなかった標準語で、巻子のことをきみ、と呼んでいたのをそういえばうっすら覚えている。

 わたしたちはもともと父親と母親と四人で、小さなビルの三階部分に住んでいた。六畳と四畳がひとつづきになった小さな部屋。一階には居酒屋が入っていた。数分も歩けば海が見える港町。鉛のような黒い波のかたまりが、激しい音をたてながら灰色の波止場にぶつかって崩れるのをいつまでも見つめていた。どこにいても潮の湿り気と荒々しい波の気配を感じる町は、夜になると酔っ払って騒ぐ男たちでいっぱいになった。

 道ばたで、建物の陰で、誰かがうずくまっているのをよく見かけた。怒鳴り声も殴りあいも茶飯事で、放り投げられた自転車が目のまえに落ちてきたこともある。そこらじゅうで野良犬がたくさんの仔犬を産み、その仔犬たちが大きくなってまたあちこちに野良犬を産んだ。でもそこに住んでいたのは数年のことで、わたしが小学校にあがった頃に父親の行方がわからなくなり、そこからわたしたち三人は祖母の住んでいた府営団地に転がりこんで、一緒に暮らすことになった。

 たった七年足らずしか一緒に暮らさなかった父親は、子どもながらに背が小さいとわかる、まるで小学生のような体躯をした小男だった。

 働かず、朝も夜も関係なく寝て暮らし、コミばあは—わたしたちの母方の祖母は、娘に苦労ばかりさせる父親のことを憎み、陰でもぐらと呼んでいた。父親は、黄ばんだランニングとパッチ姿で部屋の奥の万年床に寝転んで、明けても暮れてもテレビを見ていた。枕もとには灰皿代わりの空き缶と週刊誌が積まれ、部屋にはいつも煙草の煙が充満していた。姿勢を変えるのが億劫で、こちらを見るときには手鏡を使うくらいの面倒臭がりだった。機嫌がいいと冗談を言うこともあるけれど、基本的に口数は少なく、一緒に遊んだり、どこかへ連れていってもらったりした記憶はまるでない。

 寝ているときやテレビを見ているとき、何でもないときでも機嫌が悪くなるととつぜん怒鳴り、たまに酒を飲むと癇癪を起こして母親を殴ることがあった。それが始まると理由をつけて巻子やわたしのことも叩いたので、わたしたちはみんなその小さな父親のことを心の底から怖がっていた。

 ある日、学校から帰ると父親がいなかった。

 洗濯物が山と積まれ、いつもと何も変わらない狭くて暗い部屋なのに、父がいないというだけで、そこにある何もかもが違ってみえた。わたしは息をひとつ飲んでから、部屋の真んなかに移動した。そして声を出してみた。最初は喉の調子を確認するみたいな小さな声を、そしてつぎは意味のわからない言葉をお腹の底から思いきり出してみた。誰もいない。何も言わない。それからめちゃくちゃに体を動かしてみた。何も考えず好きに手足を動かせば動かすほど体が軽くなり、そしてどこか奥のほうから力がこみあげてくるような感覚がした。

 テレビのうえに積もった埃や、流しのなかにそのままになっている汚れた食器。シールが貼られたみずやの戸や、身長が刻まれている柱の木目。いつも目にしているそんなものたちが、まるで魔法の粉をふりかけられでもしたようにきらきらと輝いてみえた。

 でもわたしはすぐに憂鬱になった。こんなのはたった一瞬だけのことで、またすぐにおなじ毎日が始まることがわかりきっていたからだ。父親は珍しく何か用事があって外に出ているだけで、すぐに帰ってくる。わたしはランドセルを置き、いつものように部屋の隅っこに座ってため息をついた。

 でも、父親は帰ってこなかった。つぎの日も、そのまたつぎの日も父は帰ってこなかった。しばらくすると数人の男が訪ねてくるようになり、そのたびに母親が追い返した。居留守を使った翌朝には、玄関先に煙草の吸い殻が散らばっていることもあった。

 そんなことを何度かくりかえし、父親が帰ってこなくなって一ヶ月ほどがたったある日—母親は敷きっぱなしにしていた父親の布団を丸ごと部屋から引きずりだして、点火装置が壊れてから一度も使っていなかった風呂場に力任せに押しこんだ。その黴くさく狭い空間で、汗や脂や煙草の臭いの染みついた父の布団は、驚くほど黄ばんでみえた。母は布団をじっと見つめたあと、そこにものすごい飛び蹴りを一発蹴りこんだ。そしてさらに一ヶ月が過ぎたある真夜中に、わたしと巻子は「起きや起きや」と暗がりでもせっぱつまった表情をしているのがわかる母親にゆり起こされてタクシーに乗せられ、そのまま家を逃げだしたのだ。

 どうして逃げなければならなかったのか、そんな真夜中にいったいどこにむかっているのか、意味も理由もわからなかった。ずいぶん時間がたったあとでそれとなく母親に水をむけたこともあったけれど、父の話をすることがどこかタブーのようになっていたこともあり、けっきょく母の口からはっきりした答えを聞くことはできなかった。あの夜は訳のわからないまま一晩じゅう暗闇をどこまでも走ったような気がしたけれど、着いたのはおなじ市内の端と端の、電車でゆけば一時間もかからない距離にある、大好きなコミばあの家だった。




お知らせ

パートナーなしの妊娠、出産を目指す夏子のまえに現れた、精子提供で生まれ「父の顔」を知らない逢沢潤—生命の意味をめぐる真摯な問いを、切ない詩情と泣き笑いに満ちた極上の筆致で描く、21世紀の世界文学。『夏物語』刊行を記念して、川上未映子さんのサイン会が開催されます! 7月13日14時から、紀伊國屋書店梅田本店にて。参加方法は、こちらをご覧ください。


人生のすべてを大きく包み込む、泣き笑いの大長編

夏物語

川上 未映子
文藝春秋
2019-07-11

この連載について

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夏物語 第一部

川上未映子

芥川賞受賞作『乳と卵』の登場人物たちが、あらたに織りなす大長編『夏物語』。7月11日の発売を前に、第一部を全文公開。この物語には、人が生まれて生きて、そしていなくなることの、すべてがある。(平日毎日更新)

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