椎茸はグーグルマップの不在記号「悪霊はここにいません」の印
雷だ。
寺の近くに落ちたんじゃなかろうか。
雷の後は落ちたところに椎茸がしこたま発生するから、住職は嬉しいだろう。精進料理は椎茸の出汁が肝だ。
青山の甲賀組で傘張りをしているおれのような浪人の忍びの者は一体何人いるのだろう。おれなどには新しい傘は高くて一生手に入らない。一度買えた輩(やから)もこうして張り直して張替え傘を安く買う。
古骨買いをして、竹骨は残して油紙だけ替える。この新しい油紙の匂いが堪らない。深く吸い込むと安堵する。おれは毎日油紙の匂いを吸い込んで、それから仕事に取りかかる。
もしも銭がたまったら、いつか気に入った水墨画を手に入れたい。墨の濃淡だけで此の世が描かれている。神仙の御技だ。
墨屋に凄いのがあった。椎茸の水墨画だ。たった十八刷毛で、ふたつの椎茸が描かれていた。墨の濃淡と線の太さだけで描き切っていた。二本の軸、二つの笠、軸の根元から放射状に襞がそれぞれ七本。
たったそれだけで。
おれは思い出してまた陶酔し、目を閉じる。
雷が落ちた。
おれはあの水墨画のふたつの椎茸の間にいた。椎茸はおれの体の十倍くらいだろうか。生の椎茸の、じめじめした匂いと、墨の、つんとするような匂い。そしてあの、新しい油紙の堪らない匂い。見上げると、椎茸の笠が油紙に張り替えられている。
馴染んだ匂いを胸一杯に吸い込む。
全身が落ち着いて、ここにいようと心が定まる。
また雷だ。
おれは椎茸の笠の下に隠れる。
やはらかなビスとして椎茸は育ち現世の亀裂にそっと入り込む
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