〈「いだてん」第21回「櫻の園」あらすじ〉
1920年、アントワープオリンピックでメダルを逃した四三(中村勘九郎)は失意の内にヨーロッパを旅し、第1次世界大戦の傷跡が生々しいベルリンを訪れていた。そこで四三が目にしたのは戦災に負けずにたくましくスポーツを楽しむ女性たちだった。その姿に大いに刺激を受ける四三。帰国するとスヤ(綾瀬はるか)から引退して熊本に帰るよう頼まれるが、その胸には日本に女子スポーツを根付かせるという固い決意が生まれていた。
投げ槍とはなにか。
力を一点に集中して、その一点に声を集める、新しい声の出し方、それが投げ槍。槍だけでも突いたり掴んだりいろいろできる。でも投げ槍はちょっと違う。投げることと声を出すことが一緒になる。槍と声が一緒になる。
どんな声か。
声を出すことは、そこに感情を乗せることだ。時間のある一点に声を集めるということは、感情を一点に集中すると言うことだ。力を出すことと、感情を出すことが、一点の時刻、一点の空間に集まる、それが投げ槍だ。
投げやりな感情と力を1つにするために槍投げる。感情を大きな放物線として放つために槍投げる。もうこの世にいないものとこの世にいる自分とのどうしようもない隔たりを、槍投げる。この世とあの世との隔たりを前に槍投げるには、力以上の何かが必要だ。だから声を上げる。
オリンピックのスタジアムから弾かれた人、スタジアムの外にいて、それでも野で投げる人には、野にしかない感情がある。その感情が声になって槍投げる。野にいる人の感情は、見たことのない放物線を描く。ストックホルム、アントワープ、「いだてん」の描くスポーツは、ただの異国情緒豊かなカタカナではない。第一次世界大戦で焼け崩れた街で、体を動かすとしたら、それはどんな運動か。近しい人を喪った。もう何の力も入れたくない。それでも力を込めるとしたら、それはどんな力で、どんな感情がのりうるのか。
それは、思いがけない力で遠くに行く。野を越えて、道に刺さる。失意の底にいる四三の足元にずぶりと刺さる。見知らぬ異国の人の声が一本の槍に込められ、四三を驚かす。四三は思わずその感情の主たちに近づき、彼女たちがなぜあれほど遠くに槍投げられるかを知る。彼女たちはオリンピック選手でもなんでもない、ただ学校で槍投げることを教わり、オリンピックなど縁遠いが、この悲しい時代にその槍に声と力を込める術を知っていた。この世はあまりに理不尽で、憤懣やるかたない。やるかたない思いは、少しずつ小出しにして消せるものではない。たとえオリンピックには出場できなくとも、この一点、四年に一度の一点に思いを吐き出すくらいの声で、この一瞬に力込めねば、この声はこの身から離れない。だから「くそったれ」なのだ。この身からこの思い引き離す声、ここから力の限り遠くへ、わたしから離れて行け。くそったれ。
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