手柄は人にやれ
仕事をしたとき、みんなが欲しがるのは、まずお金。その次に欲しいのは、手柄だろう。仕事が辛く苦しい、労力をかけたものならば、よけいに欲しくなる。
場合によっては手柄の方が、大事にされる。会社の仕事が揉めて、「もうお金はいらないから、手柄だけは自分に残して」と頼むような事例は、意外に多く見受けられる。
手柄はお金と違い、納得のいくシェアが難しい。
人は、受け取れる手柄は独占したがるものだ。
納得できる仕事をしていないようなヤツと、手柄を分け合わなくてはいけなかったり、またはそいつに手柄を丸ごと奪われたりすると、「なんであいつに!?」と怒りは爆発するだろう。
手柄は、普遍的に魅力的な報酬だ。
だが、使ったらなくなるお金よりも、遺恨を残しやすいので厄介だ。
僕はお金と同様、手柄にも、教育の洗脳が取り憑いていると思う。
手柄をたくさん立てた人は、立派で、優秀だと教えられる。「褒められる」機会が増えると、人としての評価ポイントが加算されていく仕組みになっている。
努力して、褒められる人になりなさい。それが日本の教育の基本設計だ。
手柄を立てることが悪いわけではない。褒賞を受ける優れた業績によって、困っている人を助けたり、社会貢献できるのは、素晴らしいことだ。
ただ、手柄を立てるための努力と同時に、手柄を捨てる潔さやその意味も教えなければならない。それがないから、嫉妬や足の引っ張り合いを、生みやすくしているのだ。
そもそも手柄という概念が、抽象的だ。何の価値があって、具体的に何の得になるのか。手柄の本質的な効用が、よくわからない。
よくわからないけど、「たくさんあったほうが何となくよさそう」という感じがまとわりついている。その点は、現金とよく似ていると思う。
学校も、会社も、社会全体も、この実体のなさを利用して、国民に「無駄な努力も意味がある! 人に褒められるように努力をしよう!」と、間違った教えを刷りこんでいる。
それが手柄はいいものだという、常識の正体だ。
手柄を立てたい、褒められたいという動機で、行動してはいけない。
お金と同様、手柄も幻想だ。
そんなものは誰かにくれてしまえ。
手柄なんか持っていても、わずらわしい。己の芯がぶれるだけだ。手柄に惹かれた変な人が近寄ってきたり、意外といいことはない。手柄など、贈り物のようにあげてしまった方が、むしろ周りの人に感謝され、出会う人や集まる情報の質は上がっていくだろう。
得た手柄のシェアがうまい人には、ポジティブな縁が巡る。それもお金と性質が似ている。
「褒められたい」という欲望は、面倒な邪念だ。
本人は向上心で頑張っているつもりでも、「褒められたい」という下心があるだけで、周りが見えなくなり、他人に迷惑をかける。人に頼らず自分で何とかしようと無為に頑張り続け、結果をより悪い方へと導いていく。
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