一故人

モンキー・パンチと小池一夫(前編)—サラリーマンとプロ雀士……異業種からマンガの世界へ

令和を前にして、漫画界に大きな足跡を残した二人が立て続けに世を去りました。今回の「一故人」は前編と後編に分け、1937年生まれのモンキー・パンチと、1936年生まれの小池一夫の人生をたどります。

主人公の顔も決まらないまま描き始めた『ルパン三世』

マンガ家のモンキー・パンチ(2019年4月11日没、81歳)の代表作『ルパン三世』は1967年、『週刊漫画アクション』の創刊号(7月7日発売の8月10日号)から連載がスタートした。しかし第1回で主人公のルパンはなかなか姿を現さない。扉絵でも、セクシー美女と一緒にルパンの姿が描かれていたものの、体と帽子だけで顔はなく、「ルパン三世」の文字に置き換えられていた。

物語の冒頭で主人公がなかなか出てこないのは、読者に期待を持たせる手として使われがちだ。『ルパン三世』でもそれは効果を発揮している。ただ、モンキー・パンチがそうしたのは、効果を狙ってという以前に、締め切りが迫っていたからだった。

『ルパン三世』の構想とタイトルは早い段階で決まっていた。『週刊漫画アクション』の創刊が決まると、モンキー・パンチこと加藤一彦は、編集長の清水文人(ぶんじん。のち双葉社社長)から表紙と巻頭カラーの依頼を受ける。それにあたり「何か描きたいものはあるか」と訊かれた。加藤は、即答しないと仕事をもらえないと思い、とっさに「ルパンをやりたい」と答える。このころ評判になっていた映画『007』のスパイを泥棒にしたらどうなるか、泥棒ならルパンかなと連想したのだ(『ハヤカワ ミステリマガジン』2012年7月号)。しかし、清水の反応は「いまさらルパンは古いんじゃないか」といま一つだった。

清水が乗り気ではないので、加藤は却下されたつもりでいた。ひとまず頼まれた表紙を描き終え、のんびりしていたところ、清水から「原稿はもうできたか」と連絡が来て慌てる。すぐに描きますと返事をすると、先述のとおり扉絵はルパンの顔を文字にしてしのぎ、巻頭のカラー部分も、ルパンの顔が決まらないまま描き始めた。《途中で顔が変わってもいいや。いっそのこと、変装の名人ってことにしちゃえ!ってね》と、加藤はのちに語っている(『Pen』2012年6月15日号)。結局、キャラクターを3日で考え、第1回の原稿は1週間で描き上げた。そこにはルパンを追いかける銭形警部(雑誌掲載時の名前は「明智」)のほか、のちの峰不二子を彷彿とさせるセクシー美女も登場する。

こうして連載が始まった『ルパン三世』だが、当初は編集部内では不評だった。とりあえず3ヵ月間だけやってみて、もしだめだったら、加藤には編集部で考えた企画を描いてもらう約束だったという(『アサヒ芸能』2004年4月29日号)。だが、日本人が描いたとは思えない無国籍なタッチのマンガは、たちまち読者の評判をとる。連載が始まって1ヵ月がすぎるころには、清水がぽつりと「巷ではなかなか評価されているよ」と教えてくれた(『道新TODAY』2001年10月号)。

連載は3ヵ月がすぎても続き、1年が経つころにはキャラクターも確立していく。主人公・ルパンの設定も、加藤はあだ名のつもりで「ルパン三世」とつけたのに、担当編集者が勝手に怪盗アルセーヌ・ルパンの孫ということにしてしまった。加藤は著作権などに引っかからないか心配するも、編集者には「おまえのマンガがフランス(怪盗ルパンを創作したモーリス・ルブランの祖国)に行くか」と押し切られたという(『女性自身』2017年4月4日号)。

しかし、『ルパン三世』は後年、各国で翻訳され、ファンも世界中に広がっていく。『ルパン』だけでなく、いまや日本のマンガは「MANGA」と海外でも呼ばれ、一つのジャンルとして認識されるようになった。『週刊漫画アクション』からは以後もさまざまなヒット作が生まれたが、その一つである小池一夫(2019年4月17日没、82歳)の原作、小島 剛夕 ごうせき 作画の『子連れ狼』も、アメリカで翻訳されてベストセラーとなっている。

今回の「一故人」では、2019年4月にあいついで亡くなったモンキー・パンチと小池一夫の足跡をたどりながら、青年マンガというジャンルが誕生し、さらに日本のマンガが世界進出していく過程を追ってみたい。

郷里の「赤ひげ」に後押しされて上京

モンキー・パンチ、本名・加藤一彦は1937年5月、北海道厚岸郡浜中村(現・浜中町) 霧多布 きりたっぷ に生まれた。彼は20歳で上京するまですごした郷里を、《年中、魚のニオイと、深い霧につつまれた、静かすぎるくらい静かな漁村》と紹介している(『旅』1979年2月号)。『ルパン三世』に時折出てくる霧の深い海辺の光景は、霧多布の風景がモチーフになっているという(NHKプロジェクトX制作班『プロジェクトX 挑戦者たち 成功へ 退路なき決断 霧の岬 命の診療所』)。

父親は漁師で、加藤も夏にはコンブ漁の手伝いもした(『レアリタス』Vol.10)。ただ、父はその後漁師をやめたのか、小学校の用務員をしていたとする記事もある(『道新TODAY』2001年10月号)。絵心のあった父は、近所に頼まれてはふすま絵などを描き、子供たちにもマンガや本をよく買ってくれたという。おかげで加藤少年は、戦前の人気マンガ『のらくろ』や『冒険ダン吉』を自然と模写し始める。終戦直後、手塚治虫が登場すると、ますますマンガに魅了された。手塚作品を読むと、マンガの描き方がよくわかったという(『週刊大衆』2018年6月4日号)。当時、一家は父が勤める学校の用務員室で暮らしていたので、図書室の本もよく読んだ。そのなかで江戸川乱歩の『怪人二十面相』やモーリス・ルブランの『怪盗紳士ルパン』にも出会った。

中学に入ると、新聞などに4コママンガを投稿するようになる。ディズニーのアニメを観たのをきっかけに映像への関心も強まり、よく映画館に行った。黒澤明監督の『七人の侍』(1954年)は霧多布の映画館ではかなり遅れて上映されたが、それを待ちきれない加藤少年は、いつもマンガの購入を頼んでいた便利屋さんにシナリオ雑誌を買ってきてもらうと、シナリオから各場面を想像して絵にしてみた。あとで映画を観ると、自分が描いたのとよく似ていてうれしかったという(『道新TODAY』2001年10月号)。

中学の卒業文集には、将来はマンガ家になりたいと書いたが、本当になれるとは思っていなかった。マンガも市民権を得てはいなかった時代だ。そんな彼を後押ししたのは、高校時代に出会ったある人物の一言だった。

加藤が入学した霧多布高校は、生徒数の減少から一時閉校となる。浪人になった彼は、地元にある診療所(釧路赤十字病院浜中分院=現・浜中町立診療所)でアルバイトを始めた。バイトをしながら浪人して、別の高校に進学するつもりだったが、霧多布高校は定時制として再開したので復学する。その後も昼は診療所に勤務した。ここで出会ったのが、地域医療に尽くし、のちに「赤ひげ先生」と呼ばれた医師・道下俊一である。

このころ、加藤は道下の長男の誕生日に『のらくろ』の絵を描いてプレゼントしたことがあったという(『プロジェクトX 挑戦者たち』)。また、病院が刊行していた機関誌にも、道下から依頼され、ある一日の分院の様子などをマンガに描いて寄稿している。道下はそんな加藤を褒めて、「人より恵まれた才能があるんだから挑戦すべきだ。田舎にとどまらず、マンガ家を目指しなさい」と勧めてくれた。

この言葉に後押しされ、加藤は高校卒業後、上京する。それでも慎重な彼は、まず新聞販売店に住み込みで働きながら、テレビの撮影技術を学ぶため専門学校に通った。テレビの草創期で、技術を身につけておけば、食いっぱぐれはないだろうと考えたのだ。新聞販売店では、朝夕の配達以外に昼間は集金にも出なければならなかった。それでも加藤は深夜、マンガを描き続ける。職場の先輩がそんな彼を見て、集金はしなくていいから、自分の家でマンガを描いていろと言ってくれた。さらに先輩は、四谷にある貸本マンガ専門の出版社が新聞広告で新人マンガ家を募集していたことも教えてくれた。貸本マンガとは当時、市井の貸本屋で廉価で人々に貸し出されていたマンガである。募集を知って、加藤はさっそく描いたイラストを出版社に持ち込むとすぐ採用された。

その後、新聞販売店も専門学校もやめ、その貸本マンガ専門の出版社でマンガを描くだけでなく、編集の手伝いもするようになった。1960年代前半のことだ。貸本マンガの世界からは、従来のマンガよりもシリアスで写実的な「劇画」と呼ばれるジャンルが生まれ、さいとう・たかをなどの作家が人気を集めていた。もともと加藤は手塚治虫に近いタッチだったが、編集者からさいとうの絵を見せられ、こういうのを描きなさいと言われたという。

しかし当時すでに貸本業界は斜陽を迎えていた。加藤の働いていた出版社もやがて倒産してしまう。彼は以降3年ほど、芸能関係の業界誌、さらに小さな商事会社でサラリーマン生活を送る。そのかたわら、貸本出版社時代に出会ったアメリカのパロディマンガ誌『MAD』の影響から、新しいタイプの絵を模索し続けた。ついにはマンガ仲間と『マニア』と題する同人誌をつくり、100部印刷して出版社などに送った。しかし反響はないまま2年がすぎ、本人も出したことすら忘れてしまう—。

役人、雀士を経てマンガ原作者に

加藤一彦の一族はもともと秋田県の出身で、祖父の代で北海道に渡り、ニシン漁で成功を収めたという。本稿のもう一人の主人公である小池一夫(初期の表記は「一雄」だが、ここでは「一夫」で統一する)は、その秋田県の大曲(現・大仙市)で加藤より1年早い1936年5月、医者の息子として生まれた。自宅の向かいの素封家の土蔵には、小池より年長の男の子に買い与えられたマンガなどたくさんの本が山積みになっていた。小池は蔵に入れてもらっては、そこにある本を片っ端から読み漁る。終戦直後の本が入手しにくい時代にあって、本に囲まれた環境にいたのは、加藤と共通する。

中学時代には、山手樹一郎、山本周五郎、海音寺潮五郎などの時代小説に夢中になった。読むうち、自分にも書けるんじゃないかと思ったが、いざ原稿用紙を前にすると1枚も書けなかった。小池はこのとき初めて資料の重要さを知る。高校に入ってからは、資料を集めたり、本で知ったことをノートにつけたりするようになる。これがのちに執筆の上で強力な武器となった。

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この連載について

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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コメント

gogo_smaaaash https://t.co/j90XQEQaKA 7ヶ月前 replyretweetfavorite

may_sakamo 【 面白かった。 7ヶ月前 replyretweetfavorite

donkou ケイクス連載が更新されました。今回は前後編に分けて、青年マンガの誕生とともにデビューした2人の作家の足跡をたどります。 7ヶ月前 replyretweetfavorite