心地よいリズムを刻む小ボケと静かなるツッコミ
「昨日インターネットのヤホーってサイトで検索してまして……」
ナイツの塙宣之が話し出すと「ヤフーね。あれね、ヤフーって読むんですけども」と相方の土屋伸之がすかさず言い間違いを訂正する。塙はそれには気に留めず、日本のアニメ界の巨匠をひとり見つけてしまったと話を続ける。
「宮崎駿って知ってます?」
「いまさら?」と土屋は静かにツッコむ。ここから、宮崎駿の経歴を小ボケをまぶしながら紹介していく。
「『あるブスの少女ハイジ』っていうね、アニメをやってまして」
「『アルプスの少女』ね。ハイジがブスみたいに言うな」と、いちいち丁寧に訂正。その後も『風邪の谷を治すか』に「それヤワラちゃんの仕事だよ」とツッコんだり、「♪ラン~ランララランラン~」と歌い「ヤベえ、歌詞が出てこねえや」とボケたりとテンポよく続いていく。
やがて『痴女の宅急便』『紅のメス豚』『事をすませば』と「何を血迷ったか、下に走る傾向が出てきたんですね」と下ネタの言い間違いを連発。さらに「それを払拭したのが、2001年『せんだみつおの神隠し』」というボケに「ただの失踪事件じゃねえか」とツッコむ。
永遠に続けられるのではないかと思ってしまうほど心地よいリズムで進んでいく。そんな塙の言い間違い小ボケに静かに短く訂正しツッコんでいくというスタイルが、ナイツの「ヤホー漫才」だ。
結成直後に起こったバイク事故
いまや、塙は漫才協会の副会長、土屋は常任理事(2019年現在)。たびたび協会の師匠たちをネタにもしていることで、浅草といえばナイツというイメージが定着しているが、それは最初から本人たちが目指していたものでは決してなかった。
そもそもナイツが結成されたのは大学時代。だが、最初の相方は土屋伸之ではなく、塙の1年上の先輩だった。土屋は公認会計士になるために猛勉強をしながら、その合間に落語研究会の寄席に行くのが日課だった。そこで一番面白かったのがナイツ。つまり、土屋は「ナイツ」の熱烈なファンだったのだ。先輩の都合でナイツが解散した頃、土屋は落研に入会。新たな相方を探していた塙は土屋を指名した。新しいコンビ名を決めようとすると、土屋が言った。
「ナイツってコンビが好きなんで、そのままナイツってコンビで良いです」【※1】
だが、結成からわずか2ヶ月、悲劇が訪れる。塙がバイク事故を起こしたのだ。足の切断も危ぶまれるほどの大怪我。もう舞台には上がれないかもしれない。一足先にお笑い芸人の道に足を踏み入れていた兄のはなわからは「土屋くんには土屋くんの人生があるから(別の道を進んでも)いいからね」と涙ながらに言われたが、それでも土屋は毎日病院へ通った。懸命の看病とリハビリの結果、復帰した。
「こういうことばっかりやろうぜ」
土屋の母が元演歌歌手だった関係でコネのあった事務所に入ると、当時の社長から内海桂子の弟子となり浅草に行くように命じられる。
塙は最初、嫌で嫌で仕方なかった。ライブに出るだけじゃなく、誰かよくわからないような師匠にお茶を出したり、チラシを配ったり、外で呼び込みなどもしなければならず、「なんて無駄な時間を過ごしてるんだろう」と思いながら毎日浅草の東洋館に通っていたという【※2】。何より「浅草=古い漫才師」というようなイメージがつくのが嫌だった。自分は華やかなテレビの世界で売れたいと思ってお笑い芸人になったのだ。
実際、テレビの世界は遠かった。漫才もうまくいかない。元々は、大きくボケて大きくツッコむいわゆる王道の漫才スタイルだった。まったく結果が出ず7年が経った。なんで売れないんだろう? ビデオに撮った自分たちの漫才を改めて見直してみた。すると、「今日もお足元の“クサイ”中、よくぞ来てくださいました」といった漫才本編に入る前のツカミの小ボケのほうが確実にウケていることに気付いたのだ。
「こういうことばっかりやろうぜ」
塙は閃いた。たとえば「昨日知ったんですけど、宮崎駿ってスゴイ人ですね」では弱い。「テレビで観たんですけど」でもしっくりこない。「ヤホーで調べたんですけど」と言えばちょうどいいし、それ自体もボケになる、と。土屋も派手にツッコむよりも、公認会計士を目指していたとおり、細かなミスをボソっと訂正するほうが性に合っていると気付いた。
自分たちオリジナルの漫才、それは、すでに浅草にあった
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