夏物語 第一部

あなた、貧乏人?

その人が、どれくらいの貧乏だったかを知りたいときは、育った家の窓の数を尋ねるのがてっとりばやい。そう、貧乏とは窓の数――。芥川賞受賞作『乳と卵』の登場人物たちが、あらたに織りなす大長編『夏物語』。7月11日の発売を前に、第一部を全文公開。この物語には、人が生まれて生きて、そしていなくなることの、すべてがある。(平日毎日更新)

PHOTO:SHINTO TAKESHI

第1回 あなた、貧乏人?

 その人が、どれくらいの貧乏だったかを知りたいときは、育った家の窓の数を尋ねるのがてっとりばやい。食べていたものや着ていたものはあてにはならない。貧乏の度合いについて知りたいときは、窓の数に限る。そう、貧乏とは窓の数。窓がない、あるいは数が少なければ少ないほど、その人の貧乏がどれくらいの貧乏だったのか、わかることが多いのだ。

 以前、誰にだったかこのことを話したとき、そんなことはないやろと反論されたことがある。彼女の言いぶんはこうだった。「だって仮に、窓がたったひとつしかなくっても、それがたとえば庭に面したような、めっさおっきい窓ってこともあるやんか、おっきくて立派な窓のある家は、それは貧乏とはゆえんのとちゃうんか」と。

 しかしわたしに言わせれば、それがすでに貧乏とは関係のない人間の発想というものだ。庭に面する窓。大きな窓。っていうか庭ってなに? 立派な窓ってどういうやつ?

 貧乏の世界の住人には、大きな窓とか立派な窓という考えじたいが存在しない。彼らにとって窓っていうのは、ぎちぎちにならべられたタンスとかカラーボックスの後ろにあるんだろうけど、ひらいてるのなんか見たこともない黒ずんだガラスの板のこと。油でぎとぎとに固まって、これまた回転してるのなんか見たこともない台所の換気扇の横についている、汚れた四角い枠のこと。

 だから貧乏について話がしたいと思ったり、貧乏について実際に話をすることができるのは、やっぱり貧乏人だけだということになる。現在形の貧乏人か、過去に貧乏だった人。そしてわたしはその両方。生まれたときから貧乏で、今もまだまだ貧乏人。

 そんなふうなことをぼおっと思いだしたり考えたりしたのは、目のまえに座っている女の子のせいかもしれない。夏休みの山手線は思ったほどは混んでおらず、人々は携帯電話をさわったり本を読んだりしながら、みんな大人しく席に収まっている。

 八歳と言われても十歳と言われてもそうみえる女の子の両隣には、スポーツバッグを足もとに置いた若い男と大きな黒いりぼんのカチューシャを頭につけた女の子の二人組が座っていて、彼女はどうやら一人でいるらしかった。

 色が黒くて痩せっぽち。日焼けのせいで色のぬけた丸いはたけが余計にめだってみえる。グレーのキュロットから伸びている二本の脚は、水色のタンクトップから突きでた腕とほとんど変わらないくらいに細い。唇のはしをきゅっと結んで肩をすぼめ、どことなく緊張した面持ちでいる彼女を見ていたら—子どもの頃の自分を思いだして、貧乏という言葉がやってきたのだ。

 首の広がった水色のタンクトップ、もとは白かったんだろうけれどしみだらけで色がもうよくわからなくなっているスニーカーをじっと見る。もしいま女の子の口がふいにひらいて歯が覗き、それがぜんぶ虫歯だったらどうしようという気持ちになる。そういえば彼女は荷物を何ももっていない。リュックもバッグもポシェットも。切符やお金はポケットにしまっているのだろうか。この年頃の女の子が電車に乗って外出するときにどんなかっこうで出かけるものなのかはわからないけど、彼女が何ももっていないことがわたしを少しだけ不安にさせる。

 見ているうちに、席を立って女の子のまえに移動して、何でもいいから話しかけなければならないような気がしてくる。手帳のすみっこに自分にしかわからないしるしをちょっとつけておくみたいに、言葉を交わさなきゃいけないような気がしてくる。何を話せばいいんだろう? 見るからに硬そうな髪の毛についてならわたしにも話せることがありそうだ。風が吹いてもゆれんよね。はたけは大人になったら消えるから気にせんで。それともやっぱり窓について? わたしの家には外が見える窓がなかったけれど、あなたの家には窓はある?

 腕時計を見るとちょうど午前十二時。ぴくりともしない夏のてっぺんの暑さを横断するように電車はゆき、つぎは神田だというくぐもったアナウンスの声がする。駅に着いて気のぬけるような音とともに扉がひらくと、正午になったばかりだというのにひどく酔った老人が転がるように入ってきた。数人の乗客が反射的にさっとよけ、男は低いうなり声をあげた。スチールたわしをほぐしたような灰色の髭が、くたびれた作業着の胸あたりまでもつれながら垂れさがっていた。手にはくしゃくしゃになったコンビニのビニル袋をにぎり、もう片方の手で吊り革をつかもうとしてバランスを崩してよろめいた。扉が閉まり、電車が動きだしてまえを見ると、さっきの女の子はいなくなっていた。

 東京駅に着いて改札を出ると、どこから来るのかどこへ行くのか、信じられないくらいの人混みに思わず足が止まってしまう。それはただの人混みというよりは、まるで奇妙な競技を見るよう。ルールを知らないのはおまえだけだと言われているような気がして、心細くなってくる。トートバッグの持ち手をぎゅっとにぎって、大きく息を吐きだした。

 わたしが初めて東京駅にやってきたのは、今から十年まえ。二十歳になったばかりの夏、やっぱり今日みたいに、ぬぐってもぬぐっても汗が噴きでる、夏のある日のことだった。

 高校生時代に古着屋でずいぶん迷って買った馬鹿みたいに丈夫で大きなリュックに(これは今でもわたしの一軍だ)、普通に考えれば引っ越しの荷物に入れて送ればいいものを、お守り代わりか何なのか、片時も体から離したくなかった大事な作家の本を十冊近く背中にかついで、わたしは東京にやってきた。あれから十年。二〇〇八年現在。三十歳のわたしは、二十歳のわたしが何となくでも想像していた未来にいるかというと、たぶんまったくそうではない。

 未だにわたしの書いた文章を読んでくれる人は誰もいないし(誰も辿りつけないようなネットのはしっこで、ときどき文章を載せているブログのアクセスは多くて一日に数人だ)、そもそも活字にもなっていない。友だちだってほとんどいない。アパートの屋根のかたむき加減も剥げた壁も、強すぎる西日も、フルで働いて月に十数万円のバイトで繋ぐ生活も、書いても書いてもそれがいったいどこにむかっているのかもわからないのもみんなおなじ。親の代に入荷した本が未だにささっている古い書店の本棚みたいな生活のなかで、変化したのは十年ぶん、きっちり体がくたびれたことくらい。

 時計を見ると、十二時十五分。結局わたしは待ちあわせの時間より十五分早く着いて、ひんやりした石のぶあつい円柱にもたれて人の行き来を見つめていた。いろんな声、無数の音がざわめくなかを、たくさんの荷物を抱えた大家族が大騒ぎしながら右から左に駆けていった。またべつの親子がやってきて、母親にしっかりと手をにぎられた小さな男の子のお尻のあたりで大きすぎる水筒がゆれていた。どこかで赤ん坊が泣いて叫んで、男女ともにメイクをした若いカップルが大きな歯を見せながら足早に通りすぎていった。

 わたしはバッグから電話をとりだして、巻子からメールも着信も届いていないことを確かめた。となれば巻子たちは大阪から無事、予定通りの時刻に新幹線に乗って、あと五分もすれば東京駅に着くはずだった。待ちあわせは丸の内北口を出たこのあたり。事前に地図を送って説明はしているけれど、なんだかふと不安になって、今日の日づけを確認する。八月二十日。ちゃんとあってる。約束は今日、八月二十日、東京駅の丸の内北口に十二時半。



お知らせ
パートナーなしの妊娠、出産を目指す夏子のまえに現れた、精子提供で生まれ「父の顔」を知らない逢沢潤—生命の意味をめぐる真摯な問いを、切ない詩情と泣き笑いに満ちた極上の筆致で描く、21世紀の世界文学。『夏物語』刊行を記念して、川上未映子さんのサイン会が開催されます! 7月13日14時から、紀伊國屋書店梅田本店にて。参加方法は、こちらをご覧ください。


人生のすべてを大きく包み込む、泣き笑いの大長編

夏物語

川上 未映子
文藝春秋
2019-07-11

この連載について

夏物語 第一部

川上未映子

芥川賞受賞作『乳と卵』の登場人物たちが、あらたに織りなす大長編『夏物語』。7月11日の発売を前に、第一部を全文公開。この物語には、人が生まれて生きて、そしていなくなることの、すべてがある。(平日毎日更新)

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