学会会場になっている建物から、まだ寒いキャンパスに出た。近くの自動販売機でコーヒーを買い、枝折(しおり)と岩田(いわた)は飲み始める。
「実はな、俺も電子書籍編集部の編集長になった時、閑職に飛ばされたと思ったんだ。なんで俺が、こんなわけの分からないところで働くんだと憤ったんだよ」
「えっ、そうなんですか。今、滅茶苦茶、電子書籍派じゃないですか」
「まあ、俺も人のことを言えんよな」
枝折の言葉に、岩田は苦い顔をする。
「それでな、配属されて一年ちょっと経った時に、妻が交通事故に遭ったんだ。そして本が読めないぐらい視力が落ちたんだよ」
枝折は驚く。そうしたプライベートな話は、聞いたことがなかった。薬が見つからない。コップが割れた。目がはっきり見えれば、すぐに対応できることも、視覚に障害があれば困難になる。だから、奥さんが困っていると、すぐに飛んで帰っていたのか。
「完全に見えないんじゃねえんだよ。家具の位置とかさ、そういうのはぼんやりと見える。しかし、文字を判別するのは難しい。俺が香澄(かすみ)と結婚したのは本が縁でさ。二人とも本好きだったんだよ。それがまあ、読めなくなっちまったわけだ。
それでいろいろと調べて、音声デイジーなんかも利用するようになったんだがな、最新の本は読めないんだよ。俺が仕事でたずさわった本を、すぐに確かめることもできない。そうなると夫婦の共通の話題がごっそりと減ってな。テキスト読み上げも試したんだがな、鑑賞に堪えうるレベルではなかったんだ」
岩田は悔しそうに顔を歪める。枝折も思わず同じ表情を作った。
「事故から一年ぐらい経った頃にさ、BNBの新しい部長がうちにやって来たんだよ。いつものように飲みニケーションで、プライベートでも話すようになってさ。妻の目の話をしたら、有馬さん、こう言ったんだよ。
電子書籍が普及したら、あらゆる人が最新の本を読めるようになるはずです。それだけではありません。音声化、自動翻訳、要約や平易化、関連知識の自動摂取など、様々な用いられ方をし始めるでしょう。そのためには、データが構造化されており、関連データをきちんと含んでいる必要があります。
とまあ、あの調子で延々と語ってさ。少しだけ俺もやる気になったんだ。未来を香澄とともに覗いてみようかという気持ちになったんだ。
ただ、そのためには俺自身が努力しなければならない。電子書籍を普及させて儲かるようにしなければならない。豊富な資金で、より多くの人まで届くように、作り込まなければならない。そうすることで俺たちは、書き手と読み手を、より多く繫ぐことができると信じている」
岩田の言葉に枝折はうなずく。
「なあ、春日。俺たちの仕事は、そうした糸を張り巡らせることだ。俺は自分のことをキリギリスだと思っている」
岩田はそう告げたあと、コーヒーの缶を口に運んだ。
キリギリス——その言葉について枝折は考える。岩田が、四月の頃から使っていたものだ。
枝折は、岩田がその虫の名を唱えていた理由が、ようやく分かった。文学部で古典を学んだ枝折になら、伝わると思っていたのだ。
「キリギリスの古名に意味があったんですね」
「そうだよ。気づくのが遅えんだよ」
ため息混じりに岩田は言う。
岩田が口にしたキリギリスは、枝折が最初に連想した、アリとキリギリスの童話とは、なんの関係もなかった。
キリギリスの古名は、機織り虫と言う。書き手と読み手を糸で繫ぎ、新しい世界という布を織り上げる。
——自分は機織り虫だ。
岩田はその思いを込めて、虫の名を告げていたのだ。そのことをようやく枝折は理解した。
自分の仕事はなんなのか。
枝折は遠くを見ながら考える。目の前の仕事に、自分なりの意味を見つけようとする。
漣野(れんの)が口にしていたプラットフォームという言葉を思い出す。読者と本をマッチングしたいと話していた、有馬(ありま)のことを考える。それぞれの立場で、それぞれの言葉で語っているが、誰もが同じことを言っている。
人と人をより多く繫ぐ。
自分はなにをしたいのか。
枝折は冷たい風の中、キャンパスの景色を見ながら、自身の仕事について考えた。
◆私の仕事
地下鉄を降り、無数のサラリーマンとともに地上へと向かう。階段を上り、オフィス街の中心に出た。
風は穏やかで春のぬくもりを孕んでいる。空は晴れ渡っており、心地よい日差しに笑みを浮かべたくなる。
四月になった。またたく間に一年が経った。
枝折は駅を離れる。今日の仕事の段取りを考えながら、会社への道をたどる。
強い風が吹いた。目を細めて、流れてきた髪を払う。一年前、紙の編集部に異動できなかったら会社を辞めると決意した。それから様々な経験をしながら、社会人の最初の年を過ごした。
仕事とは、なんだろうかと悩んだ。
夢を実現するとは、どういうことなのかと考えた。
自分の世界の狭さを知った。自分が見ているのは、世界や歴史の一部なのだと気づいた。
多くの人の思いに触れた。そして、社会をよりよくすることを願うようになった。
会社の敷地まで来て、本館の建物に入る。階段で四階まで上がり、電子書籍編集部の部屋にたどり着く。枝折が働く先は、今年も電子書籍編集部だ。やらないといけないことが山積みになっている。そしてやりたいことも多くある。
「おはようございます」
大声で言い、机に鞄を置く。
鞄から荷物を出していると、隣の席でノートパソコンの起動音がした。いつの間にか服部が来て、横に座っていた。一年の付き合いになるが、いまだに彼女の気配を察知できない。
「おほほほほ、春日さん。私が来たことに気づかなかったのかしら」
「ええ。まるで忍者のようですから」
「ふふふっ、私ももう四十五歳でしょう。体力の衰えを感じるから、忍者はそろそろ卒業しようと思うの」
「えっ、そうなんですか」
「そう、忍者は卒業するの。そして、くのいちになるの。く・の・い・ち。私も大人の色香を使いこなせる年齢になってきたと思うから」
服部は両手を広げて、手の甲を枝折に見せる。異様に凝ったネイルが十本の指に塗られていた。
「えーと、ネイルサロンに行ったんですか?」
「そうよ。とうとうネイルデビューしたの。これで私もネイルマスターよ」
虎が獲物を襲うように爪を立て、シュパパパパと、影も形もない空中の敵を攻撃する。
「どう?」
「一人の剣豪が、くのいちの攻撃で絶命しました」
「ふふふふふ。あなたにも見えたようね」
服部は満足そうに、ログインして作業を始めた。
廊下から、大きな声と足音が聞こえてきた。その主は部屋に入るなり、大声で枝折の名前を呼んだ。
「おい春日。例のあれの進捗はどうなっている」
電子書籍編集部の人員に人事異動はなかった。枝折のいる部署は、相変わらずブラックホールのままである。
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