訪英した若き皇太子の案内役を務める
今上天皇の「皇室外交」デビューは、皇太子時代の1953年、イギリスのエリザベス女王の戴冠式に昭和天皇の名代として出席したときである。当時、皇太子は19歳。3月30日に横浜を出港した皇太子一行は、イギリスに行くまでにハワイ、カナダを訪ね、戴冠式に出席後も欧米9ヵ国を歴訪し、10月12日に帰国した。
イギリスに着いたのは1953年4月28日で、6月4日の戴冠式まで各地をまわった。5月26日には、英イングランド中東部の大学都市であるケンブリッジを訪問している。当地は反日感情が強く、皇太子の外遊前から関係者は懸念していた。それというのも、太平洋戦争の勃発時、ケンブリッジ出身の郷土部隊は、守備隊の一翼を担ったシンガポール要塞を日本軍に攻め落とされ、多数の兵士を捕虜にされたためだ。現地には当時の兵士らによる「捕虜クラブ」があり、日本軍による虐待を描いた自費出版の本も出ていた。しかし2泊3日の滞在中、一行を迎えたケンブリッジ大学側の細心の配慮が奏功したのか、とくに問題は起きないまま、皇太子は学生との会食、同大学のダウニング・カレッジの学長との晩餐会など一連の日程を終えた(波多野勝『明仁皇太子 エリザベス女王戴冠式列席記』)。
このとき、皇太子に大学構内を案内する役を担ったのが、翌月に31歳になろうとしていたアメリカ人講師のドナルド・キーン(2019年2月24日没、96歳)である。同大学の図書館には、日本にもすでにないような17~18世紀の日本の書物も所蔵されており、皇太子は興味深そうに「これはお経ですか?」などとキーンに質問したという。会話は日本語だった。キーンはこのときのことを、《大学の構内には日本人がおらず、教えていても話す機会がなかったので、ひさしぶりの日本人との会話でした》と後年振り返っている(『週刊朝日』2009年1月23日号)。
キーンはもともと留学生として、1948年にケンブリッジに赴いたが、皇太子訪問の前年からは教壇に立つようになり、日本語などを教えていた。1953年は、彼にとっても大きな転機となった年である。
じつはキーンはケンブリッジで、日本語を教えることを断念しかけていた。1952年春には、一般聴衆向けに日本文学について講義も行なったが、集まったのは、彼の下宿の主人夫婦を含む10人ほど。本当に自分の話を聞きたい人はほとんどいないという現実に、キーンは心底がっかりする。それほど当時のイギリスでは、まだ日本への関心が低かったのだ。彼は「この仕事には将来がないのではないか、自分は間違った仕事をやっているのではないか」とまで思い詰め、いっそ日本語はやめようとロシア語の勉強を始める。しかし、ロシア語を日本語のように覚えることがどうしてもできなかった。その理由を考えた結果、「日本語の場合はことばの裏に漢字があるので覚えやすいが、ロシア語にはそういう頼りになるものがない」という答えにたどり着く。こうなると、自分の頭はどうしても日本語向きで、ロシア語向きではないと考えるしかない。《そう思えばもう学生の少なさを嘆いてもいられません。たとえ教室に二、三人しかいなくても、わたしはこれでやっていくほかないのだと、心に決めました》(ドナルド・キーン、河路由佳『ドナルド・キーン わたしの日本語修行』)。
この前年の1952年、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は敗戦以来続いてきた連合国の占領から独立した。皇太子の外遊は、日本にとって国際社会への復帰を象徴するできごとであった。一方、キーンにとっては、講和条約発効のおかげで、それまで無理だった日本留学への道が開かれる。彼がフォード財団より奨学金を得、京都大学大学院に留学したのは、まだ皇太子がヨーロッパ歴訪中だった1953年8月のことであった。以後、途中でケンブリッジから母校の米コロンビア大学に移籍しながら、当初の予定より1年延長して1955年5月まで約2年間、日本に滞在する。1953年にはまた、前年にわずかしか聴講者のいなかった先述の講義が一冊にまとめられ、『Japanese literature』と題してイギリスで出版されている。同書はのち1963年には、キーンと親しかった作家の吉田健一の翻訳により『日本の文学』というタイトルで日本でも刊行された。
そもそもなぜ、キーンは日本語を学び、日本文学研究の道に進んだのか。ここで生い立ちを振り返ってみよう。
初めて覚えた日本語は「サクランボ」
ドナルド・フローレンス・キーンは、1922年6月、アメリカ・ニューヨーク市のブルックリンで貿易商の長男として生まれた。初めて英語以外の言語の存在を意識したのは、9歳のころ、出張する父についてヨーロッパ各国をまわったときだった。このときフランスで出会った父の仕事仲間の娘と、言葉は通じないが何とか理解し合いたいと思ったキーン少年は、一つだけ知っていたフランス語の歌『修道士のジャックさん』を歌った。この経験以来、彼は外国語に強く惹きつけられたという。その後、日本語を含め8~9ヵ国語を勉強することになる。
学校でのキーンは、教科書はもらったその日に読むだけだった。一回読めば、内容はほとんど把握できたからだ。おかげで小学校から高校までに2回飛び級して、16歳でコロンビア大学に入学する。当初は英語とフランス語の比較文学論をやるつもりでいたらしい。古典文学について学ぶため、詩人でもあるヴァン・ドーレンという教授の授業をとった。このとき、たまたま中国人の学生と隣り合わせになり、やがて友人となった彼から中国語を学ぶようになる。漢字を初めて覚えたのもこの友人からだった。
同時期の1940年には、売れ残ったゾッキ本を扱う書店で『源氏物語』の英訳を買った。分厚い2冊本なのに値段が安かったので購入したのだが、読み始めるや、たちまち魅せられる。日中戦争の最中で、中国人の友人が手厳しい反日派だったこともあり、それまでキーンは日本を脅威的な軍事国家とばかり思っていた。しかし『源氏物語』を読んで、初めて日本的な美を知る。
日本をめぐる偶然は続く。1941年、大学構内でたまたま知り合った男性から、日本語を一緒に学ばないかと誘われたのだ。男性は、当時日本の植民地だった台湾で英語を教えていたことがあった。そのときの教え子の一人である日系アメリカ人の青年が最近帰国したので、この年の夏には彼から日本語を学ぶつもりだという。しかし一人だけでは怠けてしまいそうなので、キーンのほか何人か仲間を募ったのだった。教師役となるその日系人に会ったとき、相手は桜の木に登って実を摘んでいるところだった。そこでキーンはその実は日本語で何というのか訊ねると、「サクランボ」という答えが返ってきた。それが最初に覚えた日本語だったと、彼は後年述懐している(『ドナルド・キーン著作集 第10巻 自叙伝 決定版』)。
日系人の青年から初めて日本語の手ほどきを受けたキーンは、大学でも日本語の授業をとる。しかしそれ以上に彼に影響を与えたのは、
《角田先生はたった一人の生徒である私のために、毎回熱のこもった授業をしてくださいました。先生はノートを用意せず、自分の思うところを
海軍情報将校として戦争を体験
だが、その年の12月、日米は戦争に突入。角田は敵国人として逮捕されてしまい、授業も中止となる。キーンは翌42年2月、自ら志願して海軍日本語学校に入学する。反戦主義者だった彼が同校に入ったのは、純粋に日本語を学びたいという気持ちからだったという。実際、海軍では日本語以外に学んだことはなかった。海軍日本語学校では日曜を除き毎日4時間授業があり、難しい漢字も含め、みっちりと日本語を頭に叩き込まれた。おかげでキーンたち生徒は11ヵ月で、日本の新聞を自由に読んだり、日本語で手紙を書いたり、会話をしたりできるようになった。
キーンたちは予定より早く、入学から1年足らずの1943年1月に卒業する。戦場で通訳や翻訳をする人材不足が深刻になっていたからだ。彼は予備役の通訳として1年半ハワイに駐留しながら、戦局の激化にともないアリューシャン列島のアッツ島、沖縄、フィリピンのレイテなどに従軍する。アッツ島では日本軍の玉砕を目撃したという。ハワイでは偶然、沖縄出身の人たちと親しくなった。その後、米軍が沖縄に上陸することを事前に知らされながら、軍事機密ゆえ彼らに教えられず悩んだりもした。
ハワイでは日本兵捕虜収容所での尋問のほか、日本兵の日記や手紙の翻訳にあたった。日記のなかには、自分の死を覚悟し、死後にアメリカ人に発見されるのを見越して、最後のページに英語でこれを家族に届けてほしいと記されたものもあった。キーンはその伝言どおり、兵士の家族に渡そうと思い、そうした日記を机に隠した。もちろん禁じられた行為だった。結局、このあと日記はすべて没収されてしまう。だが、このとき集中的に兵士の日記を読んだ体験は、後年、彼が日本人の日記文学をテーマの一つに据え、『百代の過客』(正編・1984年、続編・1988年)、『日本人の戦争 作家の日記を読む』(2009年)などの著作を手がけるきっかけとなる。
キーンはグアムで終戦を知ったあと、日本軍の戦争犯罪者調査のため中国の青島に赴く。1945年12月にはわずか1週間ながら日本にも初めて滞在した。翌46年1月、正式に海軍を除隊し、コロンビア大学大学院に戻ると、すでに無罪判決を経て復帰していた角田柳作のもとで勉強を再開する。海軍日本語学校の仲間には、戦争に敗けた日本は長らく立ち直らないだろうと考えて、日本語から離れた者が多かった。キーンも、焼け野原になった東京を見て、この都市が立ち直るのはほぼ不可能だと思ったという。それでも彼が日本語を捨てなかったのは、自分は日本語に向いていると直観していたからだった。
じつは大学院では、中国語も並行して学んでいた。しかしそのテキストに使っていた小説『紅楼夢』が、どうにも気に入らなかった。あるとき、そんな彼の様子を察した教授に訊かれ、中国語の学習がちっとも楽しくないと打ち明ける。すると、教授から即座に、日本語に専念するよう勧められた。これに背中を押され、彼は本格的に日本語、日本文学研究の道を歩み始めたのである。
三島由紀夫、安部公房……世界的文学者との親交
キーンはこのあと、米ハーバード大学を経て、先述のとおりケンブリッジ大学、そして京都大学大学院に留学、1955年9月にはコロンビア大学の助教授に就任する(60年には教授に昇格)。この間、京都の下宿先で一緒になった、社会教育学者で当時京大の助教授だった永井道雄(のちに文部大臣も務めた)と親交を深める。永井からは彼の幼友達だった中央公論社社長の嶋中鵬二を紹介された。さらに嶋中を通して多くの日本の著名な作家たちと知り合うことになる。こうした幸運から、キーンは日本の文学や文化に対する理解をさらに深めていった。
コロンビア大学の教員となっても、夏季休暇中には日本に滞在し、1971年に東京のマンションに住居を構えてからは、1年の前半をニューヨークのコロンビア大学で教え、後半を日本で生活するという日米往復の生活パターンが、退職するまで40年間続いた。
日本の作家のなかでも、三島由紀夫と安部公房は、日常的に一緒に食事をしたり、手紙をやりとりしたりする親友ともいうべき存在であった。いずれも国際的に知られたが、そこには、作品の翻訳や評論を通して彼らを積極的に紹介したキーンの貢献も大きい。
三島とは、京大に留学中だった1954年、彼の書いた『
三島由紀夫は1970年11月、東京・市ヶ谷の陸上自衛隊で衝撃の自決を遂げる。亡くなる年の夏、三島は毎年家族とすごす伊豆の下田で、キーンとイギリス人記者と一緒に食事をした。その際、作家は、禁漁中で普通の店では食べられないはずの伊勢海老を5人分注文する。海老が運ばれてくると、さらに2人分を追加注文した。キーンはこのときも彼は喜んでそうしているのだと思ったが、その死のあと、もう一生食べられないのだから、最高においしいものをみんなで食べたかったのだろうと、やっと気づいたという(ドナルド・キーン、堤清二〈辻井喬〉『うるわしき戦後日本』)。
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