夏には冷蔵庫を運び 巨大化するハエとの戦いが……

東日本大震災による大津波は、宮城県石巻市にあった木の屋石巻水産の工場を壊滅させました。掘り出された缶詰は、東京・世田谷の経堂に運ばれ、商店街の人々の協力で磨き上げられ、1缶300円で販売されました。「希望の缶詰」と呼ばれたその缶詰は、人と人をつなぎ、全国に広がり、洗われ、販売され、工場再建のきっかけとなります。 震災で希望を忘れなかった人と、手と心を差し出した人情商店街の人々がつながった感動の物語です。(バナーの写真:佐藤孝仁)

 3月後半から多忙を極め、経堂を離れることができなかった私が、石巻に入りはじめたのは、ゴールデンウィークが明けてからだった。

 まず驚いたのは道路だった。東北自動車道は、福島県に入ったあたりから道が悪くなり、地震による亀裂を応急処置した箇所も多く、ドライバーである石川さんの運転技術をもってしても、時折、車に軽い衝撃が走りヒヤッとした。

 三陸自動車道の石巻河南インターを降りた時の驚きは、あたり一帯に漂う、魚の腐ったような臭いだった。それが、港に近づくほどにキツさを増していく。経堂に届く泥まみれの缶詰の臭いも強烈だったが、石巻の街の臭いは、次元が違った。車は、木の屋があった魚町を目指したが、途中、ナビの誤りで、なぜか門脇地区に迷い込んだ。

 そこは、旧・北上川右岸の河口に隣接した海沿いの街で、建物はほぼ壊滅状態。もっとも被害がひどかった地区の1つだ。道路のガレキは撤去されていたが、ほとんどの建物は土台しか残っていない。日和山の斜面には、たくさんの自動車が打ちつけられたまま、虫の死骸のように張り付いていた。

 1階を完全に津波に破壊され、ボロボロの状態で立っている家があり、玄関に進入禁止のマークが貼られていたが、それは、まだ中に行方不明者がいるということだった。あまりの生々しさに言葉も出ず、スマホで撮影する気にもなれなかった。

 私たちの車の荷台に積んでいる物資は、保存食や日用品もあったが、メインは、なんと冷蔵庫だった。

 東北の遅い春もようやく過ぎ去り、季節は初夏へ移り変わろうとしていた。普通なら、温暖な5月は気持ちが開放的になる時期なはずだが、震災後の石巻は、夏を前にして緊張感が高まっていた。海に近い地域では、1階にあった家財道具がすべてダメになったというケースが多かったが、その中の1つが冷蔵庫で、食中毒などが怖い暖かい季節に必要不可欠な物だった。

 石川さんの友人から借りたサニートラックで、東京じゅうを走り回って集めた冷蔵庫は、「さばのゆ」の前と石川さんの自宅に置いていた。一時期、石川さんの自宅1階は、大小の冷蔵庫が林立する中古家電店の倉庫のようになっていて、足の踏み場もなかった。

 5月から7月にかけては、冷蔵庫を積んで経堂─石巻間を10往復ほどした。ある時は、東松島の高台の仮設住宅へ。またある時は、石巻専修大学そばの仮設住宅へ。冷蔵庫は、どこに持っていっても大歓迎された。

 その頃の石巻は、車不足も深刻だった。物資の輸送、人の送り迎えなど、ガレキが残る被災地で役に立つのは、小回りが利き、荷台のある軽トラック。木の屋も輸送用の軽トラックが足りない状況で、一度、「さばのゆ」のお客さんに寄付して頂いた日産サンバーを届けたことがある。石巻市内に入り、幹線道路沿いの中古車センターが気になり見てみると、通常なら30万円ほどで売っている車の値段が釣り上がり、中には、100万円を超えている車もあった。困っている被災者の足元を見て商売をする業者に腹が立ったが、資本主義の本質を見た気もした。

 5月半ばを過ぎると、新たな問題が登場した。それは、ハエだった。それも普通のハエではない。人差し指の爪くらいに巨大化したハエの大量発生だった。

 もともと石巻の漁港のあるエリアには、水産メーカーの倉庫が多かったため、震災後、電源喪失した冷蔵庫の中の食品や原料の腐敗が問題となっていた。それが、ハエにとっては最高の生育環境だったのだ。

「ハエが大量に発生して、しかもデカイんです!」鈴木さんからSOSをもらったので、とりあえず、ハエ取り関連商品をたくさんホームセンターで買って、石巻に運んだ。しかし、現地に着くと、自分の考えが甘かったことを思い知る。

 車を降りたとたん、あたりを飛び回っているハエの大きさと数に驚いた。急いでハエ取り紙を設置してみると、市販のハエ取り紙は、設置してものの数十秒で、真っ黒になり使えなくなってしまうのだ。周囲のハエは減る気配がない。焼け石に水とはまさにこのことで、まるでテレビで見たアフリカの難民キャンプのようだと思った。

 取っても取っても取り尽くせない。2回目からは作戦を変えて、問屋やホームセンターで網戸用の網を何十m単位で購入して運んだ。網戸は、缶詰洗いの現場や、昼食をとる休憩室などをハエから守るために使われ、近所の家にも配られた。ハエの捕獲自体は、その後、簡単で安価なペットボトルを使ったハエの捕獲器が普及して活躍した。

夏が近づくと、なんとハエが巨大化して異常発生。食中毒が増える季節なのに、石巻には冷蔵 庫が足りなかった。東京で集めて、毎週のようにトラックで運び、歓迎された。

 震災から2ヶ月。津波の傷跡は深刻だったが、工場跡地には、木の屋の人々が缶詰を泥の中から掘り返し、明日に向かって立ち上がる姿があった。

「この時期の木の屋と石巻を記録しておくのは意味があるのでは」という話になり、またも後藤さんに相談すると、写真家の佐藤孝仁さんが石巻に向かってくれることになった。

 写真だけなら、私か誰かがスマホやデジカメで撮ってもいいのだが、わざわざ後藤さんに相談したのは理由があった。5月の石巻には、まだ壊滅的な震災による死のイメージが街全体に漂っていたからだ。もちろん、スマホの画面をタッチすれば、機械が勝手に画像を写してくれる。しかし、当時の被災地では、人も風景も缶詰も何もかも、被写体が体験した絶望の色が濃く、よほどの覚悟と技術がなければ、被写体に対峙する本物の写真を撮れないと感じたのだ。

 佐藤さんは、5月18日、午前10時から、工場跡地の様子、働く人々、港近くの風景、そして、泥にまみれた缶詰と洗った缶詰を撮影してくれた。木の屋の作業場のあった水産ビル前で準備をするカメラアシスタントたちの緊迫した表情、そして港を目指して撮影に向かう佐藤さんの後ろ姿は、忘れられない。

 それらの写真は、その後、木の屋の復興活動を伝えるイベントなどで、多くの人の気持ちを動かしていった。

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この連載について

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蘇るサバ缶〜震災と希望と人情商店街〜

須田泰成

東日本大震災による大津波は、宮城県石巻市にあった木の屋石巻水産の工場を壊滅させました。掘り出された缶詰は、東京・世田谷の経堂に運ばれ、商店街の人々の協力で磨き上げられ、1缶300円で販売されました。「希望の缶詰」と呼ばれたその缶詰は、...もっと読む

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