泥まみれの缶詰』から『希望の缶詰』へ

東日本大震災による大津波は、宮城県石巻市にあった木の屋石巻水産の工場を壊滅させました。掘り出された缶詰は、東京・世田谷の経堂に運ばれ、商店街の人々の協力で磨き上げられ、1缶300円で販売されました。「希望の缶詰」と呼ばれたその缶詰は、人と人をつなぎ、全国に広がり、洗われ、販売され、工場再建のきっかけとなります。 震災で希望を忘れなかった人と、手と心を差し出した人情商店街の人々がつながった感動の物語です。(バナーの写真:佐藤孝仁)

 私が「何かが大きく変わった!」と感じたのは、震災から3ヶ月が経った6月11日のことだった。その日、支援物資の集荷などの作業をしていると、昼過ぎに1本の電話が。声の主は、長野県松本市にある瑞松寺の茅野住職で、切り出したその内容に驚いた。

「実は、今度、寺の祭りで、そちらの石巻の缶詰を売りたいのですが、4000缶送っていただけますか?」聞いた瞬間、数字が頭に入ってこなかったのを覚えている。「ありがとうございます。えーと、いくつ、ですか?」と聞き返した。住職は、ゆっくりと「よ・ん・せ・ん・か・ん、です。大丈夫ですか?」と念を押した。

 それまで、一度の注文の最高個数は200缶程度だったから、ケタ違いの数字に脳がついていけなかった。とりあえず私は、「4000缶ですね。大丈夫です」と答えて、送付先と電話番号を確認して、深くお礼を述べて電話を切った。4000缶といえば、120万円である。その金額には、かなりテンションが上がった。

 電話を切ってすぐ、この案件を松友さんに伝えると、彼も驚いて、石巻に伝えた。すると、副社長率いる現場の社員たちの士気も相当上がったようだった。

 泥まみれの缶詰を洗って売る活動をはじめてから2ヶ月が経過していた。ずっと目の前のことに夢中だったし苦労もあったが、振り返ると明るい変化が出てきていた。ゴールデンウィークには、缶詰を掘るボランティアが石巻を訪れ、各地で販売イベントが行われ、1週間に集まる義援金の額は100万円台を突破し、200万円を超える週もちらほらと出てきた。5月の半ばを過ぎると、震災前の商品復活の話も出はじめ、会社としての未来を意識できるようになってきた。

 そして6月。4000缶の注文あたりから、何かが大きく変わった。缶詰を欲しいという声はさらに全国に広まり、販売箇所も増え、缶詰を掘って洗う社員に支払える金額も少しずつ大きくなってきた。すべてが、工場跡地から掘り出し、洗った缶詰を軸に進行しているのだった。

 そして、その頃、誰ともなく、洗った缶詰を「希望の缶詰」と呼ぶようになっていた。名前の由来については、東京のJR駅構内で販売をしていた生産者直売のれん会が、売り場のPOPに「希望の缶詰」と書いたのが最初という人がいたり、千葉県内の道の駅が最初という説もある。

 実は経堂でも、同じ時期に缶詰を売るためのPOPに「奇跡の缶詰」「希望の缶詰」という表現を使いはじめていたのを覚えている。誰が「希望の缶詰」と言いはじめたのかは正確にはわからないが、1つ確実に言えるのは、その頃、工場跡地から掘り出し洗った缶詰に「希望」を感じる人が、同時多発的に増えていったということだろう。

「希望」の文字を得た缶詰は、さらに力強く木の屋の復興を進め、同時に、東北復興のシンボル的な存在にもなっていくのだった。

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この連載について

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蘇るサバ缶〜震災と希望と人情商店街〜

須田泰成

東日本大震災による大津波は、宮城県石巻市にあった木の屋石巻水産の工場を壊滅させました。掘り出された缶詰は、東京・世田谷の経堂に運ばれ、商店街の人々の協力で磨き上げられ、1缶300円で販売されました。「希望の缶詰」と呼ばれたその缶詰は、...もっと読む

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