上空を首都高が走り、六本木に抜ける外苑東通りと飯倉に抜ける麻布通りが交差する新一の橋の交差点。その角に、喫茶レストラン縄がある。
新一の橋交差点の角地。右奥に麻布十番駅6番地上出口が
店主の長谷部恵美子さんが「43年前に店を開いたときは最寄りが六本木か神谷町の駅でどちらも遠く。夜は暗くて、若者はおらず、おじいちゃんおばあちゃんの街だった」という麻布は、19年前に麻布十番駅が開通。店の前に、6番出口ができた。
24種の定食は、朝10時から24時まで食べられる。スポーツ選手や芸能人がプライベートで通い、つい最近も中村仁美アナがテレビで、「ナポリタン&煮かつのせライス」を紹介していた。しかし、そのようなメディアへの登場は例外で、長谷部さんと妹さん、40年来の女性スタッフ合計3人でまわし、余裕がないため取材はよほどのことがない限り断っているという。
立地や著名人の客など華やかなイメージとは裏腹に地味な店構えで、長谷部さん自身も飾らない、控えめな人物であった。
軒先に緋色のハイビスカスが1輪咲いていた。大切に育ててきて今年初めて咲いたのだという。
車がビュンビュン通る一の橋ジャンクションのふもとにハイビスカス。口数の少ない職人のような女性店主。大皿の左右にナポリタン&とろろライスのペアセットなど、少しずつ、いろんなところが予想外だ。
なにより予想外は、店名の「縄」である。
お酒よりコーヒーと食事の店を
「まだ大学生の頃に、夫と一緒に中野でスナックを始めました。私は料理を学校で習って、飲食店でも働いていたので。料理は大好きなんです。でもお酒を飲むお客さんの相手が苦手で。あるとき夫に、コーヒーを出す店をやりたいと相談し、ひとりで始めたのがここです」
沖縄出身の夫にちなみ、縄と命名。縄のように長く続いてほしいという願いも込めた。よく見れば、泡盛やチャンプルーもあり、揃いのTシャツも沖縄風だ。だからハイビスカス、か。
若いふたりの予算に合う物件を探していたら、暗くて人通りの少ない麻布に行き着いた。知り合いもおらず、後に大江戸線が開通することも知らなかったという。
「怖いものなしで若かったからできた。とにかくおいしいものをやれば人は来てくれるだろうと、それしか考えてなかったですね。今やれと言われても絶対無理ね」
右の壁づたいにひとり用テーブルが並ぶ
L字型の厨房は奥まっていて、料理に集中できる。ここで夜2時までコーヒーと食事を出した。仕事帰りの飲食店経営者や、水商売の女性が帰りにご飯を食べに寄る。そこで定食を充実させたのがさらによかった。客は毎年少しずつだが確実に増えていった。
夫はスナック、妻は喫茶店。ふたりとも働きづくめだったが、「仕事が好きなので。私の店は、ぼつぼつ休んだら?と周囲の人に勧められる10年位前まで9時から夜2時、定休日は日曜だけでした」と語る。
今は、24時閉店、土日の連休に体を休めることができるので楽になった。だが、多くがそうであるように、多忙は夫婦の間に溝を生む。
店が軌道に乗り始めた頃、ふたりは別れた。その後、彼は亡くなってしまった。
長谷部さんはその話になると口数が減る。どんな人でしたかと尋ねると、ようやくニコッと笑い「話し上手で、人から好かれる人。私と違ってお客さんと話す仕事が向いていました」。
そんな夫と43年前、ふたりで相談して決めたメニューは今もほとんど変わらない。
定食だけでも、サイコロステーキ、ハンバーグ、牛肉鉄板焼き、メンチカツ、エビフライ、カキフライ、豚肉キムチマヨネーズ焼きと迷うほど。それ以外に豚味噌丼、かき玉子丼など、丼ものも充実している。特筆すべきはそのどれもがボリュームたっぷりで、シンプルだが甘辛さが、いちいち丁度いいことだ。
生姜焼きはこうあってほしい。唐揚げはこの濃さで。ナポリタンはちゃんと麺よりケチャップの味付けが勝っていてほしい。そういうみんなの希望を裏切らない安定したおいしさがある。
ポークじゅうじゅう焼き定食、1010円
とりわけおすすめは、ポークじゅうじゅう焼きだ。にんにくがしっかりきいた独特の甘辛味の豚ばらが、本当にじゅうじゅういいながら鉄板にのってやってくる。これは白飯が何杯もいける危険なやつだ。
さらに、わかめと玉子の味噌汁、自家製ぬか漬け。これがまた、きゅうりとかぶと人参が厚切りで、箸休めに最強なんである。