ストックオプションの問題が解決していない
早めに株式を公開したいという話も事態をややこしくしていた一因だ(スティーブの意向は年内だった)。
ストックオプションの行使価格は付与時の株価となる。
創業したばかりなら、会社の価値も低く、それこそ1株1ドル以下などごく安い価格になったりする。社員にとっては安いにこしたことはない。当たり前だ。
だが、会社が大きくなれば価値もあがり、オプションの価格も、たとえば数ドルなどに上昇する。そして、IPOと呼ばれる新規株式公開が近づくと、会社の価値はどんどん大きくなり、それに伴ってオプション価格も上昇する。
会社の価値が高まるからIPOが可能になるわけで、当然のことだ。
建前であってもIPO間近とうたうのであれば、かなり高めにオプション価格を設定する必要がある。
その場合、入社当時にもらえていればもっとずっと安い値段で株を買えたはずという不満が古参の社員に広がる。
いまさらどうしようもないことなのだが、だからといって簡単に納得できることでもない。結局、オプションを増やせという話になってしまう。
スティーブは株を社員に分けるのを嫌がった
「そんな細かいことは関係ない」がスティーブの立場だった。
「株価はめちゃくちゃ高くなるんだから、オプション価格なんて気にする必要はない」というのだ。
ストックオプションが行使され、株を一般投資家に販売しても経営権が危険にさらされないようにしたいという強い望みもスティーブにはあった。
理由は聞かなくてもわかる。取締役会にアップルを追放された経験があるわけで、その失敗はなにがなんでもくり返したくないのだろう。
経営権を掌握していたいというのはまちがいのない事実だろうが、それだけではないだろうとも思う。
経営権だけが問題なら、もっと多くをオプションに割り当てても大丈夫だからだ。
自分が持っている株を分けあたえるのが単純にいやなのだ。株を自分のポケットに入れるかピクサー社員のポケットに入れるかと問われれば、自分のポケットのほうがいい、と。そう思うのも無理はない。
彼はオーナーであり、ここまで、金銭的なリスクを一手に引きうけてきたのだから。
スティーブとピクサー社員の板挟み状態
だが、この件でスティーブにいらついていたのも事実だ。
全員にメリットがある形で事態を正常化できるチャンスがあると私は思っていた。少々多めに株を放出しても、ピクサーの成功でスティーブが得る富はほとんど減らない。
一方、ピクサーの主要メンバーは、普通なら、大昔にストックオプションをごく低価格でもらえているはずなのだ。
正直なところ、株式公開間近になってストックオプションを検討するなど、聞いたことがない。ぎりぎりまで争うような話じゃないはずだ。
この問題で、私は、サンドバックのようなものだった。
ピクサー社員からはスティーブを守っているとたたかれ、スティーブからはピクサー社員の肩を持ちすぎるとたたかれたのだ。
心情的にはピクサー社員の味方だったが、だからどうという話ではない。私の仕事はどちらかの味方をすることではなく、スティーブと社員の両方が受け入れられる落としどころを見つけることなのだから。
ただ、初めて、スティーブと争っていると感じたのも事実である。この話を持ちだすと、スティーブは不機嫌になった。
「その話はもう検討しただろう。あとは、きみが計画を作ってくれればいい」
そう言われるのだが、ストックオプションに使える株が不十分な状態で計画など作れるはずがない。
『トイ・ストーリー』公開前、心配は尽きない
「こうと決めたら、スティーブはてこでも動かないみたいだ」
ある晩、思わずヒラリーに愚痴ってしまった。
「たいがいのことは波長が合うのだけれど、この問題はだめだ。どうにもならない」
「できる限りのことをしてだめなら、しかたないじゃない。彼の会社なんだし。あなたが気に病む必要はないわ」
ヒラリーはなぐさめてくれたが、それでもこれはなんとかしなければならない。
圧力は高まりつつあった。みな、ストックオプションの計画を心待ちにしていたが、いまの株数では怒りを買うだけだ。無理にでももっとたくさんの株を引きださなければならない。
というわけで、バークレーヒルズからサンフランシスコ湾にかけて車を運転しつつ、私は、心配ばかりしていた。
エンターテイメント会社として独り立ちできるのか、心配だった。
ピクサーが開拓したところをディズニーに取られるのではないか、心配だった。
新戦略がピクサーの文化に変な圧力をかけることになるのではないか、心配だった。
映画会社の株式公開は「長く苦しいものとなり、費用もかさむ」というハロルド・ヴォーゲルの言葉も心配の種だった。
ピクサー社員の努力と情熱に、会社は報いるべき
だが、なんといっても一番の心配はストックオプションだ。
ピクサーは、新卒からずっとここで働いている人や職業人生の黄金期となるはずの時期をここで過ごしている人が多い。
みな、なぜ、ここにとどまっているのか。なぜ、もっとお金がもらえそうなところに転職しないのか。理由は、たぶん、情熱だ。それしかないと思う。
商業的には失敗が続いているが、みな、自分たちの仕事には可能性があると信じているし、それを見届けたいと思っている。
だが、それもそろそろ限界だ。
努力に報いてあげる必要がある。
通勤の車でひとり沈思しているうち、ふと気づいた。
いくら考えてもらちはあかない、と。
大丈夫だ、割れ目の向こうまで飛べると思ったから飛ぶのではなく、状況に背中を押されて飛ばざるをえなくなることもある。
いちかばちか、飛んでみるしかなくなるわけだ。そして、いまがそういうときなのだろう。動かなければ始まらない。まずは、オプションの問題だ。
なんとも下世話に思える問題だが、どれほどの株式をストックオプションに割り当てるかがピクサーの未来を左右するはずだと私は考えていた。
少なすぎればキーパーソンに恨みが残り、会社を支える文化が壊れてしまう。スティーブから追加を引きだせる気はしないが、試してみるしかない。
スティーブの怒りを買うことになっても交渉しなければならない
たとえ、悪名高いスティーブの怒りを買うことになっても、だ。ある晩、私は、意を決してスティーブに電話をかけた。
「ストックオプションを増やす必要があります」
単刀直入に切りこんだ。
「いまの割当量ではだめです。足りません。もう数パーセント増やせばなんとかなるかなと思いますし、そのくらいなら、株式公開後、あなたの経営権が脅かされることもおそらくは避けられます」
「その話は蒸し返すなと言ったはずだが?」
いらついているのがわかる。いまにも話を打ち切りそうだ。私は具体的な数字を提案した。このくらいならぎりぎり彼も同意するんじゃないかと思った数字だ。
「それでいいんだな?」
切れる寸前という感じだ。
「そのオプションで、あとずっと大丈夫なんだな?」
そんな話じゃない。せいぜい、当面はなんとか、だ。
「はい」
でも、ここは目をつぶって行くしかない。
全員が喜ぶように「大成功」を狙うしかない
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