寺尾紗穂『彗星の孤独』より「ひとりの祈り」
『あのころのパラオをさがして 日本統治下の南洋に生きた人々』(2017年/集英社)の出版にあたって、少し前に文春オンラインで受けたインタビュー記事がヤフーニュースで流れた。ヤフーニュースのコメント欄は予想通り、保守的な意見が目立ったのだが、その中に、どうしても見過ごせないものがひとつあった。その人は戦争をなくすために必要なのは「一般庶民の感情や狭い経験ではなく、事実に即してきちんと検証すること」、と主張していた。この人が言っている事実というのは、教科書や論文に載るような、政治の動きを追った「歴史的事実」なのだろうか。外交的に追い詰められたから、こういうことをやって、国内はこんな状況だったから、だから戦争になった。だから戦争をなかなかやめられなかった。ここをこうすれば戦争を回避できたかもしれない。そういう分析は実際、ある程度進んではいるだろう。アカデミックな議論を積み重ねることは大切だ。それが国民の間に正しく理解され、さらにそれによって、確かな力のある政治家を選び、戦争をきちんと回避できる状況を作れるか、と言えば、非常に心もとない気はするけれども。
「事実に即してきちんと検証すること」。言っていることはそんなにおかしいことではない。戦争をなくしたい、という思いも共感できる。しかし、「一般庶民の感情や狭い経験ではなく」という言葉を使う人を私はどうしても信用できない。「一般庶民」というがどれほど多様であるか。その生業、状況、生い立ち、そして経験を異にし、それぞれに感じ方も違う、ということをこの人は感じとることができていない。言ってみれば、国というものが、たいていの政治家というものが、「一般庶民」の多様さを理解できていないのと同じように感じられていない。この人の物言いは、皮肉にも自分のものの見方がどれほど一面的で「狭い」のかを表してしまっているように思う。
戦争の全貌というものは、死傷者数や攻撃の様子だけで伝わるものではない。その被害の多様さや細部に目を配らなければその本当の「意味」を知ることはできない。どれだけ多くの人が異なる形で殺され、傷付けられたのか。誰を失い、その後の人生をどのように生きたのか。その逆に、戦争で金儲けをし、何食わぬ顔で戦後を生きたのはどういう人たちなのか。ひとりの人間にとって戦争とはなんだったのか。
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