香港は、香港島を中心に九龍半島と大小二百三十五余りの島から成っている。その表玄関がコーズウェイ・ベイ(銅鑼湾)だ。
この日、鮫島は気分転換も兼ねて早めに港に向かった。歩いていると背後から人力車に呼び止められたので、それに乗った。人力車の作り出す爽快な風が嫌な思いを吹き飛ばしてくれる。
宿舎から港までは、徒歩だと優に三十分はかかるが、人力車だと十分ほどで着く。
久しぶりに吸う海の空気は、鬱屈した心に清涼な風を吹き込んでくれた。
──だが五十嵐さんら戦犯容疑者には、こんな自由さえないのだ。
それを思うと、こうして気分転換を図っていることすら後ろめたく思えてくる。
──だが、いい仕事をするためには、こうしたリフレッシュも必要だ。
そう自分に言い聞かせた鮫島は、人々の行き交う港町を散歩した。
港の朝は早い。魚介類や野菜を積んだ荷車や、どこに向かうのか、膨大な数の自転車が走り回り、それらが鳴らす警音器の音が耳を圧するほどだ。
路上には露店や新聞売りが店を出し始めていた。腹も減ってきたので、新聞売りから新聞を買い、「氷室」と書かれた店に入った。「氷室」とは軽食も取れる喫茶店のことで、「茶食」と呼ばれる朝食が食べられる。
飲み物は小豆ミルクを、食べ物はハムとねぎの卵とじにトーストが付いたものを注文すると、鮫島は買ったばかりの新聞を開いた。
一面は日本軍の退去に伴い、内陸部から香港島へと押し寄せてくる人々の数が尋常ではないという記事だった。いまだ中国大陸は混乱しており、今のうちに香港に渡ろうという人々が多くいることが、この記事から分かった。
──すべては元に戻り始めているのだな。
日本軍統治時代の残滓が次第に淘汰されていくのは当然としても、そこにあった良質な日本人の足跡も消されていくことに、鮫島は寂しさを覚えた。
日本の香港統治期間は四年弱でしかなく、台湾や朝鮮の植民地統治のように、インフラを整えるまでには至らなかった。つまり、統治の成果が出る前に日本は退場を強いられたのだ。また日本から移ってきた商人たちも、中長期的な信用を売り物にする日本の商習慣を定着させる前に引き揚げねばならなかった。
──そして残ったのは、日本人への恨みだけか。
何の気なしにページをめくっていくと、突然、自分の写真があった。法廷内の撮影は禁じられているので、ちょうど法廷から出てきたところのようだ。
そこには「Japanese young lawyer Samejima, means Shark Island, starts to shark attack」という小見出しと、鮫のような潜水艦に乗る鮫島らしき人物が、法廷を魚雷攻撃する風刺画まで描かれていた。
その記事の趣旨はこうだった。
「日本の若き弁護士・鮫島氏は、『ダートマス・ケース』に熱い闘志を燃やしており、自分が弁護する五十嵐元中将の命を救うべく奔走している。だが事件は事実であり、誰かが責任を取らねばならない。鮫島氏は詭弁に近い法解釈で残虐な五十嵐被告を救おうとしているが、厳然たる事実の前にその頑張りは空回りしつつあり、鮫島氏の攻撃が成功する余地は極めて少ない」
──全く分かっていない。
鮫島はため息を漏らしたが、ふと、その記事もある面では正しいという気もした。
──そうか。俺が頑張ることは、イギリス人たちにとって「日本人の抵抗」を意味し、よい印象を持たれないということか。
だが当たり障りのない弁護をし、イギリス人に慈悲を乞うたところで、五十嵐が死刑に処される可能性は変わらない。
──戦勝国の大衆は、敗戦国には徹底的な平伏と服従を強いたいのだ。
裁判官たちは、そうした報復意識を満足させねばならない立場にある。
とくにイギリスは開戦劈頭、海軍の誇る最新鋭戦艦の「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」をマレー半島東方沖で撃沈され、海軍国の威信を著しく傷つけられた。その時の屈辱は大きく、ナチス・ドイツに対する以上に憎しみを募らせてきた。
さらにアメリカ合衆国のように、今後、共産主義国家から太平洋を守る防波堤として日本を考えているわけではなく、その主宰する法廷の大半は、報復裁判の様相を呈していた。
シンガポールのチャンギー刑務所などでは、軍の首脳部も法廷も、刑務所内で行われている拷問や私刑を見て見ぬふりをしているという有様で、全く罪のない日本人軍属や商人までもが、激しいリンチの末に次々と命を絶たれていた。
──今の日本人には、そうした無法に抵抗する武器は何もない。
イギリスは戦犯の疑いのある者を連れてきて、取り調べの上、裁判を受けさせるかどうか決めるというアメリカの方式を踏襲せず、一つの地域に残っていた日本人全員を逮捕し、一人ひとりを尋問し、戦犯の疑いがある者を裁判に掛けていた。その過程で拷問が行われるのは言うまでもなく、シンガポールでは残っていた軍人のほぼすべてが裁判に掛けられ、大半が死刑を宣告されていた。それでも、オランダやオーストラリアの法廷に比べれば死刑率が低いというのだから驚く。
──オランダやオーストラリアは連合国軍の一員、すなわち自分たちが勝者だったということを国民に印象付けたいがために、ずさんな調査で日本人を戦犯に仕立て上げ、次々と絞首台に送り込んでいるのだ。
たいした戦いもできず連戦連敗だった両国にとって、自らの名誉と自信を回復することが必要だった。それが国民の勤労意欲を高め、経済発展へとつながっていくからだ。
──そのために日本人の命は利用されているのだ。
そこに根強い人種差別意識が横たわっているのは、紛れもない事実だった。
アジア四十九カ所で行われている戦犯裁判の状況は、鮫島の耳にも入ってきていた。むろんどの裁判にも弁護人が付けられるが、オランダやオーストラリア、そしてイギリスの裁判では、ほとんど無意味な存在と化していた。
──だが、それでも俺は戦う。
鮫島は法という武器を駆使して五十嵐を救うことで、新生日本が国際社会に印す第一歩としたかった。
それは空しい戦いかもしれない。だが五十嵐が言ったように、日本の未来のためにやり抜かねばならない仕事でもあるのだ。
その時、「Excuse me」と突然、声を掛けられたので、鮫島は驚いて新聞から顔を上げた。
そこには恰幅のいい英国人紳士が立っていた。
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