方形の戦場|3ー10

戦後、BC級戦犯裁判で浮かび上がった、驚愕の真実。法の正義はどこにあるのか──。一人の若き弁護士が、“勝者なき裁判”に挑む。昭和19年3月、大日本帝国海軍の重巡洋艦「久慈」は、インド洋でイギリス商船「ダートマス号」を撃沈。救助した捕虜を殺害した。戦犯弁護人として香港にやってきた若手弁護士の鮫島は、裁判資料を読み込むうちに、この事件の──大日本帝国海軍の──抱える闇に気づいていく。圧巻の歴史小説!(水・金 10時更新)

 その夜、ベッドで公判資料に目を通していると、けたたましいノックの音が聞こえた。

「鮫島さん、おられますか」

 鮫島を呼ぶオーダリーの声がする。時計を見ると二十二時を回ったところだ。はっとして起き上がった鮫島は、「今行く」と答えつつドアを開けた。

「お休みでしたか。申し訳ありません」

「それはいいが、どうしたんだ」

「内地、いや日本から電話が掛かってきました」

「分かった」

 鮫島は電話のある事務所まで足早に行くと、置かれている受話器を取った。

「鮫島です」

「おう、あつだ。元気そうだな」

 電話を掛けてきたのは、大阪弁護士会の先輩の渥美きよたかだった。

「渥美さん、急にどうしたんですか」

「そいつはご挨拶だな。こっちはお前の情熱にほだされて、懸命に証人を探していたんだぞ」

 渥美に証人の探索を依頼しておきながら、鮫島はそのことをすっかり忘れていた。戦犯同然の待遇で香港まで行こうという奇特な証人などいないと、高をくくっていたのだ。

「申し訳ありません。それで証人は見つかったんですか」

「ああ、見つけたぞ。極上の証人をな」

「極上って──、そ、それは誰ですか」

 渥美の口から出た「極上」という言葉に、鮫島の胸が高鳴る。

しらしようぞう元大尉。軍令部第一部第一課に所属していた。くるしまてつろう軍令部総長の近い立場にいた人間だ」

 鮫島は頭の中が真っ白になった。

 ──海軍の中枢じゃないか!

 来島哲郎軍令部総長は終戦前にその職を辞したが、終戦と同時に自決していた。

 息せき切って鮫島が問う。

「その白木さんという方は、何と言っているんですか」

「軍令部から捕虜処分の命令が出ていたと証言してくれるそうだ」

「えっ、それは本当ですか!」

 受話器を持つ手が震える。

「本当だ。俺が本人から直接聞いた」

「これまでの戦犯裁判で、軍令部関係者はこぞって口をつぐんできました。すべての責任を現場に押し付けようとしているからです。それをなぜ──」

「白木氏は終戦後、僧籍に入ったそうだ。そこで高僧から真実を告げることの大切さを諭されたらしい」

「しかし証拠は──」

「白木氏は軍令部の機密書類に準じるものを持っている。それを見せてもらったが、証拠価値は十分にある」

 感激で鮫島に言葉はなかった。

 おそらく白木は、機密書類の写しか何かを所持したまま終戦を迎え、それをずっと隠し持っていたのだ。

「で、白木氏はこちらに来ていただけるのですか」

「うん。本人はどこへでも行くと言っている。ちょうど明後日、香港行きの船が出るので、それに乗れるよう手続きを済ませておいた」

「ああ、何とお礼を申し上げていいか!」

 あまりの喜びに、鮫島はその場に片膝をついてしまった。背後にいる宿直のオーダリーが、驚いた顔でそれを見ている。

 ──これで五十嵐さんを救える。

 喜びが込み上げてくる。そうしたものが公になれば、後に軍令部の誰かが戦犯裁判に掛けられるかもしれない。だが、それは身から出たさびというもので、鮫島が案ずることではない。

 受話器からは、渥美の「どうした。大丈夫か」という声が聞こえてくる。

 ようやくわれに返った鮫島が礼を言おうとすると、渥美が先に言った。

「これで何とかなりそうだな。それよりも、白木氏がそちらに着くまで公判を引き延ばせるのか」

「はい。香港までは四日もあれば着きますよね。まだ五十嵐氏と乾氏の抗弁と陳述が残っており、それぞれに三日ほどは費やされるはずなので、十分に間に合います」

「そうか。それはよかった。後は船が予定通り、そちらに着くかだけだな」

 台風シーズンは終わり掛けているので、その心配もない。

「鮫島、よかったな」

「はい。ありがとうございました」

 鮫島が受話器を置く。

 ──これで活路が開けてきた。

 確実とは言えないまでも、白木の存在が大きな突破口になるのは間違いないと思われた。


 翌日は乾の口頭弁論となった。

 乾はこの日のために百枚以上に及ぶメモを用意し、それを半ば読むようにして弁明を行った。もちろん英語である。この時、気づいたのだが、河合は「どうとでもなれ」とばかりによそを向いている。それを見れば、さすがの河合も乾を持て余し気味なのが分かる。

 乾は情状酌量を得ようというのか、自らの生い立ちから説き起こし、父母の教育や地域の人々から受けた恩義に対して、とうとうと感謝の意を述べた。

 海兵を志望した理由は、当時、海外に最も長期滞在できる手段は海軍軍人になることであり、欧米の文物に接し、それを日本のために役立てたかったからだという。

「私は本来、平和主義者であり、戦いを好みません。しかし当時の日本では、十代後半から二十代前半という実り多き時期に海外の文物を学ぶには、海軍に入るしかなかったのです」

 乾は自らの言葉に酔うように語る。

 とくに「致し方なく軍人になった」というくだりは、軍人でない鮫島にも聞くに堪えないものだった。しかし傍聴席ではうなずく者もおり、イギリス人には日本人と異なる価値観の持ち主もいると分かった。

「私の愛読書はアメリカ海軍の発行する『米国海軍協会雑誌』、通称『アナポリス』でした。アメリカへ留学したこともあり、イェール大学で民主的な教育も受けました」

 海軍では軍事面の専門教育だけではなく、海軍士官に教養全般を身に付けさせるべく、一般大学への留学も認めていた。乾はその制度を利用し、イェール大学で国際法を学んだという。

「その時に受けた恩師の言葉は、今でも忘れません。恩師は自由の尊重と法律の遵守こそ民主主義の根幹だと説きました。恩師の言葉に打たれた私は、国際法の専門家を目指しました。そして帰国後、民主主義思想を根底に置いて『軍艦例規』の改正にあたりました」

『軍艦例規』とは軍艦上における乗員の日課や服務要綱を定めたもので、軍艦勤務の基本法に等しいものだ。これを元に各艦の実情に合わせた個別法に等しい「内規」が作られていく。

「私は民主主義に基づき、帝国海軍の『軍艦例規』を国際標準に近づけました」

 乾は、旧版と乾が作成に携わった新版を例に挙げて説明した。むろん法廷にいる誰もが、そんなものに興味はない。記者たちの中には、ランチを取るために出ていく者もいる。

 四つ目の事例を乾が語り始めた時、たまらず裁判長が「Too much」と制した。

 すると今度は、「ブカ島事件」と呼ばれる一件を持ち出した。

 この事件は、乾が飛行艇母艦「八千代」艦長だった頃、ブカ島に寄港した折、スパイ容疑で捕まえたカナダ人宣教師に公正な裁判を受けさせ、無罪放免にしたことだった。

「その時、部下の多くが宣教師を殺すべきだと言いましたが、私は断固として公正な裁判を受けさせ、判決に従うべきだと主張しました」

「質問があります」

 バレットが挙手すると、裁判長は「どうぞ」と促した。

「部下の多く、すなわち当時の『八千代』の副長や航海長らは、裁判なしで死刑を主張したのですね」

「はい。そうです」

「ということは、『八千代』における乾被告の民主教育は、実を結んでいなかったのではありませんか」

「それは──」

 乾はつい「語るに落ちる」形になってしまった。

 バレットの気の利いたジョークに、閑散とした傍聴席から、まばらな笑いが起こる。

「質問は以上ですが、まだ何か自慢できるお話はありますか」

 バレットが皮肉を込めて言う。

「私は自慢話をしているつもりはありません。私という人間の実像を知っていただくべく──」

「仰せの通り、ダートマス号の乗員たち六十九名を殺したのも、乾被告の実像ですね」

 それだけ言うと、バレットは着席した。

 ──バレット、やるな。

 乾は得意とする英語を駆使し、イギリス人たちの好意を得ることに成功し掛けていた。だがバレットには、そうした媚びを売るような態度が許し難かったのだ。

 裁判長は軽くうなずきつつ、「それでは、そろそろ昼なので休廷します。午後は十三時から再開します」と言って休廷を宣した。

 ──乾さんは、日本人でありながら民主主義の本場であるアメリカの教育を受けてきたことを強調し、裁判官たちに親近感を植え付けようとしたのだ。

 それが、河合の入れ知恵かどうかは分からない。だが鮫島は、そうした日本の軍人らしからぬ法廷戦術に納得できないものを感じていた。


 食堂に赴こうとすると、入口付近でナデラが待っていた。昼食はナデラと共に取ることにしているので、不思議なことではない。

 ナデラは常に河合の助言者のエリアスと共に傍聴席の端に座り、公判を聞いている。その日の公判が終わった後、鮫島に対して助言するのが仕事だが、最近は鮫島もイギリスの軍事法廷に慣れてきたので、とくに助言らしきものはない。

 裁判長たちは食事を別室に運ばせるので、公判関係者で食堂に行くのは、検事、弁護人、通訳たちである。傍聴者は食堂には入れないが、その前で公判関係者を待ち、話を聞くことはできる。

 鮫島が流暢な英語を話すことは記者たちも知っており、さかんに話し掛けてくる。それらを「Sorry」と言って振り切り、ようやく席に着いた。

「裁判長たちに、新たな証人の申請はしたのですか」

 席に着くや開口一番、ナデラが問うてきた。

 すでに白木のことは、ナデラにも伝えてある。

「今朝、書類を提出した」

「それで返答はありましたか」

「受理したと事務官は言っていたが──」

「分かりました。受理されたのなら大丈夫でしょう」

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真実の航跡

伊東潤
コルク
2019-03-05

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伊東潤

一人の若き弁護士が、“勝者なき裁判”に挑む。圧巻の歴史小説! 太平洋戦争中に起きた非道な捕虜殺害事件。 戦後、BC級戦犯裁判で浮かび上がった、驚愕の真実。 法の正義はどこにあるのか――。 昭和19年3月、大日本帝国海軍...もっと読む

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