方形の戦場|3ー8

戦後、BC級戦犯裁判で浮かび上がった、驚愕の真実。法の正義はどこにあるのか──。一人の若き弁護士が、“勝者なき裁判”に挑む。昭和19年3月、大日本帝国海軍の重巡洋艦「久慈」は、インド洋でイギリス商船「ダートマス号」を撃沈。救助した捕虜を殺害した。戦犯弁護人として香港にやってきた若手弁護士の鮫島は、裁判資料を読み込むうちに、この事件の──大日本帝国海軍の──抱える闇に気づいていく。圧巻の歴史小説!(水・金 10時更新)

 ──俺のしていることは間違っているのか。

 寝室の天井を眺めつつ、鮫島は何度も自問を繰り返した。赤石を追い詰めることで、乾に対するうつせきを爆発させることはできた。これにより、これまで「苦悩する艦長」というイメージを持たれていた乾が、「処刑を命じただけで、自らは立ち会わない卑怯な男」という印象に変わったはずだ。

 ──だがそれは、乾さんを処刑台に近づけることになっても、五十嵐さんを処刑台から遠ざけることにはならない。

 五十嵐の立ち位置は変わらず、乾だけを処刑台に向かって進ませたことになる。

 ──それが本当の弁護なのか。

 閉廷が宣せられた時、乾は顔を真っ赤にして鮫島をにらみつけていた。その鬼のような形相は、「お前は、なぜ俺を死刑にしたいんだ」と問うていた。

 一方、五十嵐は鮫島に一瞥もくれず、ただ淡々と法廷を後にした。その冷静で達観したような態度からは、何の感情も読み取れなかった。

 ──それでも俺は、赤石の証言にすがるしかなかった。ほかにどんな道があるんだ。

 鮫島は、「ほかにどんな道があるんだ」という台詞が、誰かの口から発せられた時のことを思い出していた。


 母と兄弟を座らせると、父はいつものように厳かな口調で言った。

「もう母さんには話したことだが、父さんは皆と別のところに住もうと思っている」

「別のところに住むとは、どういう意味ですか」

 兄が不思議そうな面持ちで問うたので、母が代弁しようとした。

「父さんはね──」

「うるさい! 私から説明する」

 父が母の言葉を制した。これまで幾度となく見てきた光景だ。

「実は、父さんと一緒に住みたいという人がいて、父さんは、その人のめんどうを見なければならないんだ」

 そこまで聞けば、父が何を言わんとしているのか鮫島にも分かる。

 兄が口を尖らせて言う。

「われわれを置いて出ていくということですね」

「そういうことになる」

「なぜ、そんなことをするのですか」

 腕を組んでしばし考えた末、父が言った。

「ほかにどんな道があるんだ」

 ──それが答えか。

 父は父なりにいろいろ考えたに違いない。だが人は、二つの道を歩むわけにはいかない。

 ──考えた末、家族を捨てて若い女との生活を選んだというわけか。

 ここ数年、父と母は冷え切った関係になっていた。おそらく男女の交わりもなかったのだろう。それでも子供が小さいうちは、父にも幸せを感じる瞬間があったのかもしれない。だが兄は自立し、鮫島が法律学校に通っている今となっては、それも消え失せたのだ。

「籍はどうするのです」

 兄の鋭い質問に父は一瞬たじろいだが、威厳を取り繕いつつ言った。

「残念ながら、母さんに抜いてもらうことになるだろう」

「つまり、離婚なさるわけですね」

 深い沈黙が訪れる。母は瞑目して微動だにせず、何の感情も面に出さない。

 兄が畳み掛ける。

「父さんは別の方と結婚なさるのですね」

「そういうことになるだろう」

 ──父さんは、あの女と結婚するのか。

 あの時の父のうれしそうな顔を思い出せば、問うまでもないことだ。

 ──だが、あまりに身勝手ではないか。

 捨てられたという無念の思いが、怒りへと転化するのは早かった。

「父さん、あんまりじゃないですか!」

「お前は黙っていろ!」

 鮫島を制したのは、父ではなく兄だった。兄は家長を継ぐ者として、父親とさしで渡り合うつもりでいるのだ。

「では、われわれの生活はどうなるのです。私はもう自立していますが、正二郎はまだ学生です。だいいち母さんは働いたことがありません」

 その時になって初めて、鮫島は学業を断念せねばならない可能性があることに気づいた。

 ──俺は法律学校をやめねばならないのか。

 鮫島は愕然として言葉もなかった。次の瞬間、道路工事や港湾労働で汗を流す自分の姿が脳裏に浮かんだ。

 父は沈黙して何も答えない。それが答えなのは明らかだった。

「お父さん」と母が呼び掛ける。

「何だ」

「正二郎の授業料だけでも家に入れていただけませんか。正二郎はお父さんのような弁護士になりたくて、勉学に励んでいるんですよ」

「それは知っている。だが働きながら学ぶのも人生経験だ」

 ──何を言っているんだ。

 鮫島は、昼は軍需工場で働かされ、夜になってから法律学校に通っていた。

 兄が話を替わる。

「私の給料で二人を食べさせることはできても、正二郎に法律学校を続けさせるのは無理です。何とかしていただけませんか」

 父は腕を組んで黙っている。

 ──女に言い含められているのだ。

 女が貧相で堅苦しいだけの父に惚れる理由はない。

 ──金以外にはな。

 父は弁護士という仕事柄、戦時でも人並み以上の収入があった。

「出ていかれるのは父さんの勝手ですが、何とか家にお金を入れてくれませんか」

「それはできない」

 父が首を左右に振ると、母の口調が急に変わった。

「それなら私にも覚悟があります」

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真実の航跡

伊東潤
コルク
2019-03-05

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真実の航跡

伊東潤

一人の若き弁護士が、“勝者なき裁判”に挑む。圧巻の歴史小説! 太平洋戦争中に起きた非道な捕虜殺害事件。 戦後、BC級戦犯裁判で浮かび上がった、驚愕の真実。 法の正義はどこにあるのか――。 昭和19年3月、大日本帝国海軍...もっと読む

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