方形の戦場|3ー2

戦後、BC級戦犯裁判で浮かび上がった、驚愕の真実。法の正義はどこにあるのか──。一人の若き弁護士が、“勝者なき裁判”に挑む。昭和19年3月、大日本帝国海軍の重巡洋艦「久慈」は、インド洋でイギリス商船「ダートマス号」を撃沈。救助した捕虜を殺害した。戦犯弁護人として香港にやってきた若手弁護士の鮫島は、裁判資料を読み込むうちに、この事件の──大日本帝国海軍の──抱える闇に気づいていく。圧巻の歴史小説!(水・金 10時更新)

 いよいよ公判初日の九月十九日になった。

 まだ夜が明けやらぬうちに目覚めた鮫島は、熱いシャワーを浴びて出廷の支度を整えると、少し早めに第五法廷に入った。すでに通訳や速記者は席に着いており、傍聴人席も英国人らしき老若男女でいっぱいになっている。本国から派遣されてきた記者が、おそらく半数以上を占めているのだろう。この裁判は、それほどイギリス本国でも注目を集めているのだ。

 十分前になると、エスコートと呼ばれる警備兵に左右の腕を取られるようにして、五十嵐と乾が連れてこられた。

 二人とも夏用のジャケットに開襟シャツといういで立ちで、これから裁かれる被告のようには見えない。

 ──記者たちの目を意識しているな。

 新聞の中には、このケースを何回にもわたる特集記事で大々的に取り上げると発表したところもあり、裁判所の方でも正当な待遇をしていることを示したいのだろう。

 鮫島が乾を見るのはこの時が初めてだったが、いかにも負けん気が強そうな顔とは裏腹に落ち着きなく視線をさまよわせているのは、不安に押しつぶされそうになっている証拠だろう。

 ──とても海軍軍人には見えない。

 海軍軍人は兵学校でスマートネスを叩き込まれるので、口数の少ない紳士的な人物が多い。五十嵐などその典型だろう。だが乾はそうしたイメージとはかけ離れている。

 ──五十嵐さんが手こずったのも分かる気がする。

 一方の五十嵐は、高僧のような清々しい顔で、達観したように瞑目している。むろん二人とも、視線を一切合わせようとしない。

 気づくと河合とバレットも着席していた。バレットは緊張しているのか、手元の起訴状をせわしなく見ている。一方の河合は自信ありげに法廷を睥睨していた。

 時計の針が十時を指した。

「Court!」という執行官の声が法廷内に響きわたる。

 傍聴人も含めた全員が起立すると、三人の判事が入廷してきた。

 右手の部屋から姿を現した三人は、裁判長のアンディ・ロバートソン中佐、陪席のパウエルとカーターの両少佐だ。彼らは法務官だが、この裁判が軍管轄下の戦犯裁判であることを明確にするため軍服を着用している。

 向かって左手陪席にカーター、中央裁判長席にロバートソン、右手陪席にパウエルの順で着席する。

 開廷が宣言されると、裁判長、陪席、通訳、速記者の順で、聖書の上に手を載せて神への宣誓を行った。続いて被告二人が証言台に呼ばれ、形式的なじんてい尋問がなされ、いよいよ公判が始まった。

 バレットが立ち上がり、起訴状の朗読を始める。起訴状は事件の概略を説明し、それが行われた日時を読み上げるもので、とくに目新しい内容はない。

 それが終わると罪状認否である。裁判長が起訴事実を認めるかどうか問うと、二人の被告共に「Not guilty」と宣言した。

 それを聞いた鮫島はほっとした。万に一つだが、五十嵐が罪を認めてしまう可能性があると思っていたからだ。

 弁護人二人も審理の続行を尋ねられたが、二人とも「No objection」と声高に答えた。これは、被告と弁護人の意思が齟齬を来していないか確認するために行われる。

 バレットが再び立ち上がり、冒頭陳述を始めた。これは起訴状の朗読とは違い、香港戦犯部がまとめたもので詳細にわたる。それが一時間も続いた後、複数の生存者が提出した口供書や宣誓供述書が読み上げられた。

 それで、この日は閉廷となった。


 初日が終わり、鮫島は法廷を後にするとロビーに出た。傍聴人たちも帰ったのか、ロビーは閑散としていた。

 その時、第七法廷でも公判が終わったらしく、被告が連れ出されてきた。まだあどけなさの残る若者である。

 ──こんな若者まで戦犯裁判に掛けられているのか。

 鮫島が道を譲るべく、廊下の壁面に寄った時、両腕を取られた被告と目が合った。

「あなた、Lawyerか」

 若者は鮫島に向かってそう尋ねた。

 戸惑いながらも「ああ、そうだが」と答えると、その若者は鮫島の前に両膝をつき、日本語で叫んだ。

「お願い、助けて!」

 突然のことで、エスコートの二人も啞然としている。

「助けて。私、殺される」

 若者が鮫島の靴に額をこすり付ける。

「お願いです。私、軍曹に言われてやっただけ。私、やりたくない言ったよ。でもやらないと、軍曹ぶつね」

 若者は泣きながら、懸命に何かを訴えようとしていた。

 その時になって、鮫島はその若者が日本人でないことに気づいた。

「君は日本人じゃないのか」

「そう。私、台湾から来たね」

「Stand up!」

 エスコートの二人が若者を抱え起こそうとする。

「私のLawyer、悪い人。私、日本語だめ。だからJudge、何も分からない」

 ──台湾語の通訳が付かなかったのか。

 若者は片言の日本語で、懸命に自分の無実を訴えたはずだ。だが日本人の弁護人はろくに話を聞かず、若者の言い分を裁判官に伝えようともしなかったのだろう。

「私、嫌だと言った。でも連れてこられた。早く帰って仕事しないと、家族食べられない」

 どうやらその若者は、日本軍に軍属として徴発され、台湾から無理に連れてこられたらしい。

 軍属とは、軍隊に所属しているが戦闘以外の雑事に携わる者のことで、おそらくこの若者も、炊事、洗濯、輸送などの下働きをさせられていたに違いない。

「お母さん待ってる。私、台湾、帰りたい」

 若者の泣きじゃくる声がロビーに反響する。

 二人のエスコートが若者の両脇を抱え、強引に抱き起こす。

「Please wait」

 鮫島の声に、エスコートの足が止まる。

 鮫島は胸ポケットから煙草のケースを取り出すと、若者に差し出した。

「私にしてあげられることは、これだけだ」

 エスコートの一人が煙草を受け取り、若者の胸ポケットにねじ込んだ。

「ああ、助けて」

 懇願する若者に鮫島は背を向けた。

 ──許してくれ。俺には何もしてやれないんだ。

 若者の泣き声が遠ざかっていく。足を引きずられているのか、そのつま先が発する摩擦音が、鮫島を責めているように聞こえる。

 人の気配がしたので振り向くと河合が立っていた。

「あれは、第七法廷で裁かれていた台湾人の軍属だ」

「台湾人の軍属がなぜここにいる。いったい彼が何をしたんだ」

「聞いたところによると、日本人の憲兵隊長に命じられ、現地の人を殺したらしい」

「その憲兵隊長はどうした」

「終戦前、内地に転属になったようだが、行方不明らしい。おそらく姿をくらましたんだろう」

「で、判決は──」

「もちろん死刑さ」

「なぜ死刑なんだ。命令されてやったんだろう」

「ああ、そうさ。だが命じられた時に抗命していない限り、死刑となる。それが連合国軍裁判の不文律だ。しかし台湾人の軍属が憲兵隊長に抗命できるか。そんなことをすれば、自分が殺されて埋められるだけだ」

 河合が吐き捨てるように続ける。

「しかも、ここの憲兵裁判も峠を越えたので、弁護士もろくなのが残ってない」

 河合は首を左右に振ると声を潜めた。

「東京弁護士会が員数合わせで送り込んできた弁護士が、たいして話も聞かず、弁護もしなかったのさ。そいつは弁護士仲間に、『早く済ませて帰りたい』と漏らしていたらしい。それで、あっという間に結審したのさ」

「そんな理不尽があってたまるか。あの台湾人は無理に連れてこられ、人殺しを強要された上、裁判でろくな弁護もされなかったというのか」

 あの台湾人の若者は、戦後になっても日本人に苦しめられていた。

 ──それでも彼は、恨むべき日本人の一人である俺を頼ってきた。

 それを思うと、日本人としての罪悪感に胸が締め付けられる。

「鮫島、これが現実だ。だが、あの若者の裁判は俺たちには関係ない。ここでは自分の仕事以外、何事にもかかわらん方がいい」

「そんなことは分かっている」

「分かっているなら煙草などやるな」

 河合が咎めるような口調で言う。それに一理あると思った鮫島は話題を変えた。

「で、俺に何か用か」

「赤石さんを呼んだんだってな」

 鮫島が口を閉ざす。

「お前は乾さんを死刑にするためなら、どんな手でも使うのか」

「何を言う!」

 鮫島が激したので、ロビーで立ち話をしていたイギリス人たちがこちらを向いた。

「もう取っ組み合いはしないぜ。お前が怖いんじゃなくて、奴らに殴られるのが嫌だからな」

 河合が、おどけた仕草で両手を前に出す。

 ──われわれもイギリス人に殴られ、蹴られることには変わりがないんだ。

 あの時のことで、自分たちの置かれた立場がいかにもろくて弱いものか、鮫島は思い知った。

「鮫島よ、お前がそこまでするとは思わなかった。だが負けはしないぞ」

「河合、俺たちは戦っているわけじゃない」

「いや、違う。お前が乾さんを死に追い込もうとする限り、俺たちはかたきどうしだ」

 それだけ言うと、河合は行ってしまった。

 ──どうしてなんだ。

 職務に忠実であろうとすればするだけ、鮫島は孤立し、周囲から非難の声を浴びせられる。

 ──こんな公判があってたまるか!

 そうは思ってみても、ここで投げ出すわけにはいかない。

 弁護人は自由人なので、ケースから降りる権利は持っている。だが、イギリス兵のガードなくして街に放り出されれば、怒りに燃える香港人たちによって殺されるかもしれない。

 この建物で働くオーダリーたち同様、鮫島が独力で日本に帰国することは不可能なのだ。

 ──つまり俺も、この島に囚われているということか。

 職務を全うする以外に帰る道がないことを、この時、鮫島はさとった。

<次回は5月17日(金)更新です>

真実の航跡

伊東潤
コルク
2019-03-05

コルク

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伊東潤

一人の若き弁護士が、“勝者なき裁判”に挑む。圧巻の歴史小説! 太平洋戦争中に起きた非道な捕虜殺害事件。 戦後、BC級戦犯裁判で浮かび上がった、驚愕の真実。 法の正義はどこにあるのか――。 昭和19年3月、大日本帝国海軍...もっと読む

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