法の正義|2ー11

戦後、BC級戦犯裁判で浮かび上がった、驚愕の真実。法の正義はどこにあるのか──。一人の若き弁護士が、“勝者なき裁判”に挑む。昭和19年3月、大日本帝国海軍の重巡洋艦「久慈」は、インド洋でイギリス商船「ダートマス号」を撃沈。救助した捕虜を殺害した。戦犯弁護人として香港にやってきた若手弁護士の鮫島は、裁判資料を読み込むうちに、この事件の──大日本帝国海軍の──抱える闇に気づいていく。圧巻の歴史小説!(水・金 10時更新)

 公判開始の九月十九日まで、残すところ十日余りとなった。

 鮫島は時間の許す限りスタンレー・ジェイルに通い、五十嵐の話に聞きいった。

 この日は、インド洋作戦終了後の五十嵐の動向について話を聞くことができた。

 インド洋作戦が中止になった後、第十六戦隊はリンガ泊地に向かった。そこで五十嵐は衝撃の事実を知る。しかし当初は定かでない情報だったので、あえて気に留めないようにしていた。

「どのようにして、その事実を知ったのですか」

「シンガポールの七戦隊から赴任してきた者が教えてくれた。だが、その者も流れてきた噂を耳にしたにすぎないと言っていた」

「それを事実だと思いましたか」

「いいや」と言って五十嵐が頭を左右に振る。

「あれだけ捕虜のことを気遣っていた乾君が、捕虜を処分するなどあり得ないと思った。しかも十六戦隊の指揮下から外れた時点で処分するなど考えられない。それでは、すべての責任を自分が背負わなければならなくなるからね」

「つまり、その噂話を信じなかったのですね」

「そうだ。乾君は目先の問題だけを解決したがる性格だが、先任参謀や航海長がいる限り、そんな無法なことをさせないに決まっていると私は思い込んでいた」

「しかし海軍では、司令官や艦長の命令は絶対なのでは」

「それは、あくまで軍事作戦でのことだ。人道にかかわる問題となれば、意見具申は活発に行われる」

 それは鮫島も聞いたことがある。

「しかし処分が行われたということは、誰も乾さんに抗う者がいなかったということですね」

 五十嵐は黙って煙草を取り出すと、鮫島が上げたライターで火をつけた。

 いかにも苦しげな顔で、五十嵐が煙を吐き出す。

「どうして『久慈』の幹部は、誰も反対しなかったのでしょう」

「これは私の推測だが、皆、長い緊張のため、判断力が鈍っていたのかもしれない」

 確かに長時間にわたって緊張状態に置かれると、人は異常な判断を下すことがある。皆、煮詰まってくると、大局的な観点を見失い、原点に立ち戻って考えようとしなくなるからだ。

「しかしなぜ乾さんは、捕虜たちを処分しようと思ったのでしょうか」

 鮫島は、それを問わずにはいられない。

「怖かったのさ」

「何を恐れていたのです」

「乾君は出世欲が強かった。だが厄介なのは、自らの砲術理論を実戦で試したいから司令官になりたいという技術者特有の出世欲だった。常の者なら、『偉そうにしたい』とか『格好いいから』といった、くだらん理由で出世したがるものだが、彼の場合は純粋だった」

「つまり七戦隊に前の作戦のお荷物を持っていけば、出世の道が閉ざされると思ったのですね」

「そうだろうね。私が七戦隊の司令官なら、これほどの馬鹿はいないと思うよ」

 五十嵐が苦笑する。

 確かにそんなことをすれば、乾はその判断力のなさを露呈し、悪くすれば抗命罪に問われることになる。そうならなくても、出世どころか艦長職を解かれて、どこかの閑職に回されることになったはずだ。

「シンガポールが近づくにつれて、乾君は追い込まれていった。それは『久慈』の幹部たちも同じだった」

 五十嵐がごとのように言う。

「たかが出世のために人を殺せるのでしょうか」

「おそらく俗物的な理由で出世したい者だったら、殺すことまではしないさ。だが乾君は、自分の砲術理論によって敵艦隊を壊滅できると信じていた。だから彼の出世欲は始末に負えなかったのさ」

 五十嵐が口惜しげに煙草の火をもみ消す。

「つまり自分が出世することは、日本の勝利につながると信じていたのですね」

「そうだよ。彼は航空戦ではなく、艦隊決戦で勝てると信じていたんだ」

「そんな馬鹿な」

「いや、彼は戦時中からこう言っていた」

 五十嵐は乾の説を語った。

「日本軍と連合国軍の軍事力は五倍から十倍の差がある。この状況でまともに戦っても勝ち目はない。そこで占領地域を内南洋だけに限定し、守勢に徹する作戦で戦線を縮小していく。そうすれば連合国、とくに米軍はフィリピン奪還に力を注ぐだろう。そこでわが連合艦隊が入江の多いフィリピン諸島で通商破壊戦を展開する。さすがの米軍も消耗するだろう」

「しかし敵には、レーダーがあるのでは」

「レーダーの精度はいまだ発展途上だ。ジャングルの入江や湾内に潜む小型艦艇までは捉えられない」

「では、それからどうするというのです。敵に消耗を強いるだけでは勝てません」

「その通り。だが米軍は、いったん始めた侵攻作戦は致命的な打撃をこうむらない限りやめないはずだ。そこで無傷の連合艦隊をフィリピン近海に集結させて決戦を挑むというわけだ」

「艦隊決戦なら、どこでやっても条件は同じではありませんか」

「いや、それは違う。日本の戦艦の主砲命中率は敵戦艦の三倍。重巡洋艦の場合でも二倍になる。しかも九一式徹甲弾と九三式魚雷は、米国のものよりもはるかに優れているので、とうしよの多い地域での近接戦になれば圧倒的に優位に立てるというわけだ」

「なるほど」

 五十嵐の話を聞いていると、乾が天才に思えてくる。

「だが戦争というのは、こちらの思惑通りにはいかない。敵だって馬鹿じゃない。乾君の思い描く通りに動いてくれるとは限らない」

「確かに、そうですね」

「それでも、それだけの構想を描き、軍令部に意見具申するんだから、彼も大したものだ」

「でも、それは認められなかったと──」

「そうだ。開戦当時は『航空主兵・戦艦無用』を提唱するやまもとろく元帥が、連合艦隊を牛耳っていたからな」

「では五十嵐さんは、乾さんの意見が認められたら、戦況はどうなったとお思いですか」

「もっと悔いのない戦いはできたかもしれない。だが結果は変わらなかっただろう。ただ──」

 五十嵐は皮肉な笑みを浮かべると言った。

「『ダートマス・ケース』で、われわれが裁かれることもなかったはずだね」

 それを聞いた鮫島は、暗澹たる気分になった。

「分かりました。では、五十嵐さんのその後に話を戻しましょう」

「インド洋作戦の後のことだね」

 鮫島がうなずくと、五十嵐は「その後」について語り始めた。

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伊東潤
コルク
2019-03-05

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