法の正義|2ー10

戦後、BC級戦犯裁判で浮かび上がった、驚愕の真実。法の正義はどこにあるのか──。一人の若き弁護士が、“勝者なき裁判”に挑む。昭和19年3月、大日本帝国海軍の重巡洋艦「久慈」は、インド洋でイギリス商船「ダートマス号」を撃沈。救助した捕虜を殺害した。戦犯弁護人として香港にやってきた若手弁護士の鮫島は、裁判資料を読み込むうちに、この事件の──大日本帝国海軍の──抱える闇に気づいていく。圧巻の歴史小説!(水・金 10時更新)

 ──俺はどうしたんだ。

 直前まで何かの夢を見ていたと思うのだが、それが何かは思い出せない。ただ鮫島の父と五十嵐が、スタンレー・ジェイルの接見室で談笑していた光景だけが頭に浮かぶ。

 ──二人は何を話していたんだ。

 そんなことを思っていると、すでに死んだ父が、ここにいるわけがないことを思い出した。

 ──ここはどこだ。

 ようやく頭が冴えてきて、自室にいることに気づいた。

 ──そうだ。五十嵐さんの許に行かねば。

 起き上がろうとすると、ひどい頭痛に襲われた。

 どうやら自室のベッドに寝かされているらしい。頭に手を回すと、包帯が幾重にも巻かれていた。

「無理しないことです」

 執務机の方を見ると、ナデラが椅子に座っていた。

「しかし行かねばならない」

「今日は日曜日ですから、ジェイルは閉まっています」

 ──そうだったな。

 鮫島はそのことを思い出した。

「君は、ここで何をしているんだ」

「あなたの世話をするよう本部から命じられ、ここに詰めていました」

 今、気づいたのだが、額には冷えたタオルが置かれている。

「いったい俺はどうしたんだ」

「覚えていないのですね」

「ああ」

 ため息をつきつつナデラが言う。

「河合さんと取っ組み合いの喧嘩をし、警備兵に銃床で頭を打たれたんですよ」

 ──そうだったのか。

 記憶が順を追って浮かんできた。

 ──河合と立ち話をしていて、何かのことでいさかいを起こし──。そうだ。警備兵が走ってきて銃を振りかざしていたな。

「思い出したよ」

「それはよかった」

「イギリスという国は、ずいぶんと手荒なことをするんだな」

 ナデラが呆れたように首を左右に振る。

「当たり前です。あなたたちは敗戦国の人間です。何をやられても文句を言えません。もしも打ちどころが悪くて死んだとしても、イギリス軍は何とでも言えるのです。逆に警備兵が優しい男で幸いでした」

 ──その通りだ。

 それを忘れて熱くなってしまったことを、鮫島は悔いた。

「河合はどうした」

「幸いにしてあなたの下になっていたので、少々、蹴られただけで済みました」

「で、どこにいる」

「少なくとも今日一日は、自室のベッドの上でしょうね」

 蹴られたのが少々でないことは、その話から分かる。

 ようやくベッドから身を起こした鮫島は、靴を履こうとした。だが頭痛がひどく、座ったまま頭を抱えてしまった。

「これを飲んで下さい」

 ナデラが水の入ったコップと錠剤を持ってきた。

「アスピリンです。頭痛がひどいんでしょう」

「ああ、少しひどいな」

「医者にも診てもらいましたが、触診したところ頭蓋骨に異常はないので、頭痛が治まれば問題はないそうです」

 ──問題はない、か。

 薬を受け取った鮫島は、頭がぼうっとしているためか、しばしそれを眺めていた。

「毒じゃありませんよ」

「分かっている」

 飲料水が喉から胃の腑に流れ落ちる。まだ頭痛はしているが、水を飲んだことで少し元気が出てきた。

「ありがとう」

「礼は要りません。私は仕事をしているだけです」

「仕事か──」

 鮫島は苦笑いした。

 ──何が「法の正義」だ。何がこれからの日本のためだ。こんなところにいたら命まで取られかねない。

 鮫島は自分の仕事に対して笑ったのだが、ナデラは別の意味に取ったようだ。

「私の仕事を笑うのですか」

 ナデラの言う意味が分からなかったので、鮫島が黙っていると、ナデラがなまりの強い英語で畳み掛けてきた。

「私の仕事を笑うなら笑えばいい。いや、私がインド人であるにもかかわらず、イギリス軍で働いていることを笑いたいのですね」

「そんなことはない!」

 インド人の気質なのか、鮫島はナデラの思い込みの強さが煩わしくなった。

「あなたは何も分かっていない。ここがどこかも、あなたの立場も、あなたのやろうとしていることも、何もかも分かっていない」

「それは違う!」

 鮫島はなおも言い返したかったが、頭痛のためにその気力も失せていた。

 ──河合も同じことを言っていたな。

 あの時の会話の記憶が徐々によみがえる。

「あなたは、『法の正義』とやらを信じて突っ走っているだけだ」

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伊東潤
コルク
2019-03-05

コルク

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一人の若き弁護士が、“勝者なき裁判”に挑む。圧巻の歴史小説! 太平洋戦争中に起きた非道な捕虜殺害事件。 戦後、BC級戦犯裁判で浮かび上がった、驚愕の真実。 法の正義はどこにあるのか――。 昭和19年3月、大日本帝国海軍...もっと読む

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