鮫島は一人、湾仔の街をさまようように歩いていた。時折、行き交う人と肩がぶつかるが、それで日本人だと気づかれて暴行を受けようと、もはやどうでもよかった。
開き直ったかのように開襟シャツで歩く鮫島が日本人だと気づく者もいるようだが、冷めた視線を送ってくるだけで、誰も何も言ってこない。
──俺はどうしたらいいんだ。
いつものように湾仔は喧騒に包まれていた。人々の話し声の合間を縫うようにして、麻雀牌や牌九らしきものをかき混ぜる音や、路上で粤劇(広東オペラ)の曲らしきものを奏でる音が聞こえる。
その音の洪水の中、鮫島は五十嵐の心中の相克について考えていた。
──五十嵐さんの苦衷は察して余りある。
戦隊司令官として責任を取らねばならないという気持ちと、故郷に残した家族の許に帰りたいという気持ちが交錯し、五十嵐は煩悶しているのだ。
──五十嵐さんを救おうとすることが、果たして正しいことなのか。このまま死なせてやった方が、彼にとって幸せなのではないか。
鮫島の一部がそう囁く。
──いや、法の正義を貫くべきだ。弁護人として、手を抜くわけにはいかない。
しかし鮫島のがんばりで希望の灯が見えれば見えるだけ、五十嵐の覚悟を揺るがすことにつながる。しかも鮫島のがんばりは、乾を死刑判決に近づけることにもなるのだ。
──見せしめは一人でいいのに、乾さんまで死なせてしまったらどうする。
逆に五十嵐が生き残り、乾が死刑となれば、五十嵐と鮫島は十字架を背負って生きていくことになる。
──それでは死刑判決を出させずに、この公判を終わらせることはできるのか。
現実問題として、二人を共に死刑から逃れさせるのは至難の業だった。六十九人に及ぶ罪のない人々を殺した罪は、厳然として存在するからだ。
仮に最高責任者の篠田が病死せずに生きていたとしても、篠田は命令を下達しただけなので、死刑にはしにくい。やはり作戦責任者の五十嵐か、実行した乾が責任を負わねばならないのだ。
──俺はどうすればいいんだ。
気づくと湾仔の町はずれまで来ていた。メインストリートには違いないが、湾仔の中心からは遠く、ビクトリア・ピークの稜線が近くに見える。
その時だった。
「日本鬼!」
声がした方を振り向くと、一人の老婆が鮫島に向かって指を差している。
「日本仔!」
老婆が大声を上げながら近づいてくる。それに気づいた人々も、何事かと集まってきた。
「お前は日本人だろう」と詰め寄る老婆に、鮫島が片言の広東語で、「ちょっと待って下さい」と言って両手を前に出す。だが老婆は構わず、目に涙を浮かべて鮫島に迫ってくる。
早口なので極めて聞き取りにくいが、どうやら息子が日本軍の憲兵隊に連れ去られ、戻ってこないと言っているらしい。こうした場合、「分からない」と答えるに越したことはないと教えられたのを、鮫島は思い出した。
「唔知道」
「日本鬼!」
老婆の目は怒りに燃え、今にも摑み掛からんばかりだ。その背後から群衆も近づいてくる。
鮫島は、ここでリンチに遭って殺されるかもしれないと思った。
──死にたくない。
死の恐怖が鮫島を取り巻く。だが鮫島の心の一部は開き直っていた。
──それで気が済むなら殺せばよい。俺は鬼に等しい日本人だからな。
捨て鉢な気持ちが胸底から込み上げてくる。
──これまで日本人であることは誇りだった。だが今はどうだ。
イギリス人からも香港人からも憎まれ、蔑まれていくうちに、日本人であるという鮫島の誇りは次第に失われていった。
老婆が口角泡を飛ばしながら、人差し指で鮫島の胸をつつく。
「日本鬼! 日本仔!」
ネオンに照らされた老婆の顔は、涙でくしゃくしゃになっていた。
「ごめんなさい」
日本語が口をついて出た。
「ゴメンナサイ──」
なぜか老婆がその言葉を繰り返した。どうやらその意味を知っているようだ。
「日本人、それ言わない」
老婆が片言の日本語で言う。
「ごめんなさい」
鮫島が繰り返した次の瞬間、老婆が鮫島の胸に顔を埋めてきた。
老婆は泣きながら、「返してくれ、返してくれ」と繰り返している。
鮫島が老婆の背を撫でる。
「唔好意思、唔好意思」
鮫島は、広東語で「ごめんなさい」と繰り返した。
その様を見て、集まり始めていた人々は去っていった。
しばらくして、老婆が鮫島から体を離した。老婆は覚束ない足取りで鮫島の脇を通り抜けると、黙ってどこかに向かった。鮫島は声を掛けようと思ったが、何と言おうか迷っているうちに、老婆は雑踏の中に消えてしまった。
鮫島は、憲兵隊が働き盛りの男性を手当たり次第に連行し、拷問を加えて死に至らしめたことを知っていた。便衣兵(正規の軍服を脱ぎ捨て民間人の服で戦う兵)によるテロの恐怖は日本兵の間に蔓延しており、致し方ない側面もあったが、ろくに調べもせずに殺しまくったのは動かし難い事実だ。
しょせん便衣兵かどうかなど調べようがなく、香港憲兵隊本部としては、男たちを手当たり次第に捕まえては殺すしか治安を維持する方法はなかったのだ。
──だが、それでよかったのか。
戦争は矛盾に満ちている。それぞれには、それぞれの言い分がある。だが勝った者たちは、負けた者たちを黙らせる力も権限もあるのだ。
──われわれは負けたんだ。それなら勝者のルールに従わねばならない。だが、それよりも大切なのは「法の正義」ではないのか。
鮫島は今更ながら、そのことを思った。
──老人たちは勝手に戦争を始め、勝手に負け、その尻拭いをわれわれにさせている。われわれの手に武器はない。あるのは「法の正義」だけだ。
鮫島は、かつて家の床の間に掛けてあった掛軸の言葉を思い出した。そこにはどこかの県知事か県議会議員か忘れたが、その揮毫した「逆境上等」という言葉が書かれていた。
──「逆境上等」か。
鮫島は一人ひとりの日本人が正々堂々と戦後処理に向き合うことで、日本は国際社会から一人前の国として認められると信じていた。
──いいだろう。どんな逆境にあろうと戦い抜いてやる。
鮫島は固く心に誓った。
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