鮫島のスタンレー・ジェイル通いは続いた。
最初の頃は、その絶景に見とれた崖上からの風景も、毎日となると飽きてくる。しかも季節柄なのか、晴れていても香港全体に薄茶色の靄が掛かったようになり、見通しが悪くなってきたこともある。
しかし、それが季節の問題だけではないのを鮫島は知っていた。五十嵐の前途を思うことで彼への同情心が増し、ジェイルに近づくと気が滅入ってくるのだ。
一日一時間の面談時間とはいえ、二人は多少の雑談もするようになった。とくに故郷に残してきた家族の話をする時、五十嵐は目を細めて好々爺然とした顔をする。
そんな五十嵐を見ていると、鮫島はつい父のことを思い出してしまう。
鮫島の父は厳格で、家族に対しても一分の隙もない男だった。毎朝、起床すると狭い庭に出て乾布摩擦をし、白米、納豆、味噌汁だけの朝飯を食べ、グレーの背広に蝶ネクタイを締め、中折帽をかぶって出勤した。
その謹厳実直を絵に描いたような姿は、少年の鮫島にとって誇りだった。
そんな父が人間らしい顔をしている場に、一度だけ出くわしたことがある。鮫島が法律学校に通っていた頃のある日、たまたまカフェから出てくる父を見つけたのだ。
鮫島は声を掛けようとしたが、様子がいつもと違う。なぜか父は家では一度として見せたことのない柔和な笑みを浮かべているのだ。その様子に躊躇していると、遅れて連れが出てきた。若い女性だった。
その時、父には家庭や仕事とは別の人生があることを知った。
もちろん、このことは誰にも話さなかった。母に話したところで、「あら、そう」で済ますと分かっていた。父と母の関係は冷え切っており、父は父という役割を、母は母という役割を演じているにすぎないからだ。
鮫島は父の背信に強い反感を抱いた。だがその日から、重い黒雲のようにのしかかっていた父の存在が急に軽くなった。父が一人の人間であり、男であると知った時、それまでの畏怖がなくなり、鮫島は父と対等の立場になった気がした。
そうした鮫島の変化を父も察したのか、それからはおもねるように話し掛けることが多くなった。だが鮫島は心を閉ざし、父を突き放した。
──そして俺は父を殺した。
医者から聞いた病状を誰にも告げなかったことで、父は手術の機会を失い、苦しみにのたうちながら死んでいった。
接見の日々が始まってから二週間ほど経った時のことだ。いつものように話を聞こうとすると、五十嵐が唐突に言った。
「私には、もう思い残すことなどないんだよ」
「何を仰せですか」
鮫島は戸惑った。
「長男はお国に捧げたが、次男は幸いにして復員できた。これで次男まで捧げてしまっていたら、さすがに妻がかわいそうだった。今、次男は懸命に働いて家計を立て直そうとしているらしい。そのうち嫁さんも迎えられるだろう」
五十嵐が遠い目をする。
それでようやく鮫島にも、「思い残すことなどない」という言葉の意味が分かった。
「そこに帰りたいとは思わないのですか」
「私がか」
五十嵐が複雑な面持ちで煙草をもみ消す。
「私には、あそこに帰る資格などない。いや帰ってしまっては、英霊たちに申し訳が立たない」
「どうしてですか。戦争での生き死には時の運です。五十嵐さんの責任ではありません」
五十嵐が首を左右に振る。
「われわれ将官には責任がある。とくに中将ともなれば、兵たちの屍の上で生きていくわけにはいかない」
「それは違います。軍の階級は役割にすぎません。その役割を全うする上で戦死者が出たとしても、責任が上官個人に帰されることはありません」
「法律家らしい解釈だな」
五十嵐が苦笑いする。
「兵たちに申し訳ないという気持ちは分かります。しかし──」
「君にそれが分かるのか!」
五十嵐の口調が突然変わる。その顔には苦渋の色が溢れていた。
「私は多くの死を見てきた。そのすべてが安らかなものばかりではなかった。戦場では痛みと苦しみにあえぎながら、『死にたくない、死にたくない』と言って死んでいく者が大半だ。それを君は知っているのか」
──確かに、俺は戦場を知らない。
鮫島も召集されたが、弁護士の資格を持っていたことから、軍の法律関係の仕事に従事するだけで終戦を迎えられた。
「私は戦場を知りません。五十嵐さんの気持ちが分かるというのは間違いでした」
鮫島は率直に謝罪した。それを見て五十嵐は激してしまったことを悔いたのか、慈愛の籠もった眼差しを向けてきた。
「すまなかった。君も立派に国に尽くしてきた一人だ。後方勤務の者を貶めるのは、軍人として最も恥ずべきことだ」
五十嵐が軽く頭を下げる。
「そう言っていただけるとうれしいです。それで、その後のことですが──」
「しかし君が私を救うことが、これからの日本にどれだけ役に立つというんだ」
五十嵐は、いまだそのことにこだわっていた。
「君は私を救いたいんじゃない。君は『法の正義』という旗を掲げる自分に酔いたいんだ」
「そんなことはありません」
そう言いながらも鮫島は、それを強く否定できないのを知っていた。
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