法の正義|2ー7

戦後、BC級戦犯裁判で浮かび上がった、驚愕の真実。法の正義はどこにあるのか──。一人の若き弁護士が、“勝者なき裁判”に挑む。昭和19年3月、大日本帝国海軍の重巡洋艦「久慈」は、インド洋でイギリス商船「ダートマス号」を撃沈。救助した捕虜を殺害した。戦犯弁護人として香港にやってきた若手弁護士の鮫島は、裁判資料を読み込むうちに、この事件の──大日本帝国海軍の──抱える闇に気づいていく。圧巻の歴史小説!(水・金 10時更新)

 鮫島のスタンレー・ジェイル通いが始まった。

 同行する助言者のナデラは相変わらず不愛想で、車中も仕事以外の会話には応じようとしない。それでも仕事の話を通じて、当初抱いていたであろう鮫島に対する反感も、わずかずつ和らいできた気がする。

 煙草以外の差し入れは許されていないので、何箱かの煙草と筆記用具だけを携え、鮫島とナデラはジェイルの門をくぐった。

 面談時間は一日一時間と限定されている。そのため席に着くや、雑談抜きで本題に入らねばならない。

「早速、昨日の続きの話を聞かせていただけませんか」

 前のめりになる鮫島とは対照的に、五十嵐の表情は冴えない。

「昨夜、じっくりと考えてみたんだがね。負けると分かっている裁判を戦い、万が一、私以外にも死刑を宣告される者が出たらどうする」

 五十嵐も鮫島と同じことを考えていた。

 鮫島が全力を尽くして五十嵐を弁護することで、罪は乾に転嫁され、乾が死刑となる可能性が増すことは否定できない。

「確かに私には、乾君との間に感情的なわだかまりがある。だが、あくまでそれは職務上のことだ。私の罪を軽くするために君が必死の論陣を張ることで、乾君の命を危うくすることになるかもしれない。そんなことに私は賛同できない」

 五十嵐が苦渋を面ににじませる。

「お待ち下さい。結論を出すのはまだ早いと思います。私たち弁護人は、お二人とも救いたいのです」

「とはいっても、処分を行ったという厳然たる事実がある限り、誰かを差し出さねばなるまい」

 弁護士たちの噂によると、イギリス軍の戦犯裁判では、少なくとも日本人の誰か一人を処刑にせねばならないという不文律があり、どれほど理不尽な理由であろうと、処刑者を出すことが判事たちの使命のようになっているという。

 東京弁護士会の一人が「どんなにがんばったって駄目なものは駄目さ。あいつらの結論は最初から出ている。いうなれば裁判は形式だよ」と言っていたのを、鮫島は思い出した。

 ──だからといって、人の命が懸かっているんだ。あきらめてなるものか。

「これは報復裁判ではありません。必ずや突破口があるはずです」

「突破口か」

 五十嵐が皮肉な笑みを浮かべる。

「この問題の突破口はいくらでもあった。こんなことになるはずがなかったんだ。しかし彼は──」

 五十嵐は愚痴を言い掛けて口を閉ざした。おそらく乾の悪口は言うまいと心掛けていたのだろう。だが彼の内心では、幾度となく「なぜだ」という言葉が繰り返されたはずだ。

「その突破口を見つけるためにも、お話を聞かせて下さい」

「分かったよ」

 五十嵐が語り始めた。


 作戦報告研究会が終わった翌日にあたる三月十七日の夜、五十嵐はまんじりともしない一夜を送った。というのも、これで肩の荷を下ろせると思っていた矢先、別の問題に思い至ったからだ。

 まず捕虜を押し付けられた第七戦隊が、五十嵐と南西方面艦隊司令部に対して悪い感情を抱くのではないかと思った。つまり第十六戦隊の失態により、篠田中将に迷惑を掛けることにもなりかねない。

 ──七戦隊に要りもしない土産を押し付けるくらいなら、バタビアで捕虜たちを収容しておく方がよいかもしれない。

 とくに第七戦隊は主力部隊の要であり、余計なものを押し付けて、その手を煩わせたくない。ましてや「五十嵐中将は無責任だ」などという風評が立てば、面目は丸つぶれとなる。

 ──だが問題は、それだけではない。

 五十嵐は、乾の単線的な思考が心配でならなかった。

 ──シンガポールに向かう途次、乾が捕虜たちを処分することはないだろうか。

 あれだけ捕虜の保護を訴え続けた乾である。まさかそんなことをするとは思えないが、乾の資質を思うと一抹の不安もある。

 ──乾君は思い込みが激しい。極度の緊張下で、どのような判断を下すか分からない。

 室内を歩きながら考えているうちに、外が明るくなってきた。窓を開けると、山の端から朝日が昇ってきていた。時計の針は、もうすぐ五時を指すところだ。

 五十嵐は部屋の外にいる従兵を呼んだ。

「加藤君に、マルロクマルマル、私の執務室に来るよう伝えてくれ」

「はっ」と答えて従兵が駆け去る。

 シャワーを浴びて軍装に着替えた五十嵐が自らの執務室で加藤を待っていると、時間きっかりに加藤が現れた。

「朝早くからすまない」

「いいえ、構いません。で、何事ですか」

「いろいろ考えたのだが、『久慈』にいる捕虜を全員、ここに収容しようと思うんだ」

「えっ」と言って加藤が絶句する。

「このまま捕虜を七戦隊に押し付けるのは、無責任ではないかと思ってね」

「しかし『久慈』と『高津』の復帰を決めたのは軍令部です。われわれにとっては寝耳に水で、いかんともし難いことです。七戦隊の司令部でも、その事情は分かってくれるのでは」

「しかし、われわれの作戦行動中に獲得した捕虜だ」

「それはそうですが──」

いんに紛れて、捕虜たちを陸上に移送することはできないだろうか」

「それは無理です。百を超える数の人間を上陸させて、ガードしながら収容所に送り届けるとなるとおおごとです。警備に五十人は必要な上、逃亡させないために、昼のように探照灯で照らさねばなりません」

 加藤の言うことは尤もだった。

「それがばれたら、篠田さんや軍令部に何と言い訳するのですか」

 ──そんなことは分かっている。

 五十嵐は頭を抱えたい心境だった。

「それでは、捕虜を乾君に任せておいてよいのか」

「と、仰せになりますと」

「乾君の思考は、われわれ海軍軍人の枠からはみ出している。われわれの想定する範囲外の行動を取りかねない」

「つまり、シンガポールへの帰途に処分する可能性があるというのですか」

「そうだ」

「しかしすでに『久慈』は、われわれの指揮下にありません」

 ──それは正論だ。

 だが捕虜の立場からすれば、それではたまらない。

「加藤君、捕虜の身になってみたまえ」

「それはそうですが──」

 加藤にも、ようやく五十嵐の言いたいことが分かったようだ。

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伊東潤
コルク
2019-03-05

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伊東潤

一人の若き弁護士が、“勝者なき裁判”に挑む。圧巻の歴史小説! 太平洋戦争中に起きた非道な捕虜殺害事件。 戦後、BC級戦犯裁判で浮かび上がった、驚愕の真実。 法の正義はどこにあるのか――。 昭和19年3月、大日本帝国海軍...もっと読む

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