宿舎に戻った鮫島は頭を整理したかった。だが部屋に戻れば資料の山が待っており、ついそれらに手を出してしまう。外を散歩しようかと思ったが、ここの庭は幾度となく歩いたので飽きてきている。それゆえ裁判所内を見学することにした。
戦犯の法廷は第五法廷と第七法廷と聞いていたが、まだ行ったことはない。入れてくれないかもしれないが、鮫島は半地下の法廷に出向いてみた。
この日、法廷では何の公判も行われておらず、当番兵が一人立っているだけだった。
鮫島が英語で「法廷を見たい」と言うと、その若い当番兵は一瞬、困ったような顔をした後、小さくうなずいた。
日本人弁護士という立場は微妙で、何もかも禁じられているわけではない。それゆえ当番兵は「法廷の見学ぐらいはいいだろう」と思ったに違いない。
当番兵に礼を言った鮫島は、まず第七法廷をのぞいてみた。
──確かこちらは、軽微な戦犯裁判で使っている方だな。
重犯罪に相当する「ダートマス・ケース」の公判は第五法廷で行われると聞いていたので、鮫島は第七法廷をちらりと見ただけで、第五法廷に向かった。
第五法廷のドアを開けて中に入ると、裁判官席の背後の壁上に掲げられたユニオンジャックが目に入った。
それは裁判の主宰者が誰かを主張するかのように、堂々と掲げられていた。それを目にした瞬間、おそらく大半の弁護士が気持ちを挫かれるはずだ。
法廷内に入った鮫島は、ユニオンジャックに対峙するように胸を張った。
──われわれは戦争に負けたが、法廷では負けないぞ。
第五法廷は第七法廷の倍ぐらいの広さがあった。座席はほぼ正方形に配置され、一段高い上座に座席が三つ見える。そこにはプレートがあり、中央に「Presiding Judge(裁判長)」、その左右に「Judge(裁判官)」と書かれていた。裁判長席の下方には「Stenographer(速記者)」の席が二つ向き合っている。
裁判長席から見て左側に「Witness(証人)」席があり、腹ぐらいの高さの囲いがある。その下座に「Interpreter(通訳)」席が設けられている。その背後が「Hearer(傍聴人)」席だ。
裁判長から見て右側には「Defendant(被告人)」席があり、その後方は半地下ながら窓があり、外の光が取り入れられるようになっている。
裁判長と正対する席は中央が通路で、向かって左側に「Prosecutor(検事)」席、右側に「Lawyer(弁護人)」席がある。その背後は、通訳席の背後と同じく傍聴人席となる。
鮫島はゆっくりと法廷内をめぐった。
──ここが俺の戦場になるのか。
鮫島は、「Lawyer」と書かれたプレートのある弁護人席に着いてみた。まさに裁判長らと対峙する形になる座席位置だ。
右を見ると検事席がある。
──ここにバレットが座るわけか。
長身のバレットが「Objection!(異議あり!)」と言いながら立ち上がる姿が、容易に想像できる。
この事件は個別裁判ではなく、五十嵐と乾が同時に裁かれて量刑が言い渡されるので、鮫島の左右どちらかに河合が座すことになる。だが、五十嵐と乾の言い分は一致しない公算が高いので、場合によっては、隣り合う河合と言い争う展開も予想される。
──それだけは避けたいところだが。
言い争うということは、鮫島は乾の、河合は五十嵐の罪を問う形になる。
──つまり俺は、乾さんを追い詰めることになるかもしれない。
五十嵐の弁護人という立場を度外視すれば、鮫島はどちらの肩を持つわけでもない。だが弁護人という立場上、担当する側の肩を持つ弁論を展開することは致し方ないことだ。
──五十嵐さんに罪があるにしても、少しでも刑が軽くなるよう努力する。それが弁護人の務めだ。だが、その目的のために奮闘することで、乾さんの罪を重くすることになったらどうする。
こちらに来る前、大阪弁護士会の説明会で、「無期懲役でもいいから死刑判決だけは回避するように」という指示が出ていたのを思い出した。確かに生きていさえすれば、そのうち恩赦などで量刑は軽減される可能性が高い。
──五十嵐さんの言う通り、初めから判決など決まっており、無駄な努力なのかもしれない。だとしたら、乾さんをも死刑に追い込んでしまったらどうする。
それを思うと、居ても立ってもいられなくなる。
鮫島は立ち上がると、もう一度、法廷内を歩いてみた。被告人席の背後に行き、外を眺めてみたが、そこはいつも散歩している裁判所の前庭だった。まばゆいばかりの光に包まれた前庭は、法廷の陰惨さとは対照的だった。
窓際に近寄り、ふと下を見ると、深い通路状の溝が穿たれていた。それは新たに掘られたようで、コンクリートが新しい。だが両端は共に行き止まりで、何のために造られたのかは分からない。
その時、鮫島は気づいた。
──判決が出た瞬間、被告が背後の窓を破って逃げ出すことを防ごうとしているのか。
万が一、被告がそのようなことをしても、下の溝に落ちるような構造になっているのだ。日本人というものを少しでも知っていれば、そんなことをする被告などいないのは分かるはずだが、そこに、イギリス人の日本人に対する理解のなさが見て取れる。
──もはや日本人は逃げられないのだ。
その溝は、戦犯容疑者だけでなく日本人全員を逃がさないために穿たれた穴のような気がする。
──これから、われわれは連合国の監視下に置かれ、何一つ自由に判断できない国となるのかもしれない。
それを思うと、日本人全員がいかに努力しようと無駄な気がする。
──われわれが国際社会の一員と見なされ、同等の人として扱われるまでには、どれほどの時間が掛かるのだ。
鮫島は暗澹たる気持ちになった。
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