法の正義|2ー5

戦後、BC級戦犯裁判で浮かび上がった、驚愕の真実。法の正義はどこにあるのか──。一人の若き弁護士が、“勝者なき裁判”に挑む。昭和19年3月、大日本帝国海軍の重巡洋艦「久慈」は、インド洋でイギリス商船「ダートマス号」を撃沈。救助した捕虜を殺害した。戦犯弁護人として香港にやってきた若手弁護士の鮫島は、裁判資料を読み込むうちに、この事件の──大日本帝国海軍の──抱える闇に気づいていく。圧巻の歴史小説!(水・金 10時更新)

 加藤が五十嵐の席に近づくと、小声で問うてきた。

「五十嵐さん、どうしますか」

「軍法会議など申請されてはたまらん。とにかく乾を説得しろ」

「法務官が乾に付き添っています。無理な説得はできません」

「分かった」と言って五十嵐が法務官を呼ぶと、入れ違うようにして、加藤が別室に向かった。

 五十嵐は軍法会議が行われる場合のについて、いくつか法務官に質問した。

 法務官は乾の方を気にしていたが、五十嵐をないがしろにするわけにもいかないので、その質問に誠意を持って答えた。

 五十嵐が「よし、分かった」と言うや、法務官は乾のいる別室に向かった。

 ──これで二十分は釘付けにできた。

 やがて休憩時間が終わり、皆が席に戻ってきた。その時、加藤がうなずいたので、五十嵐は内心、安堵のため息を漏らした。

「それでは、作戦報告研究会を再開する」

 加藤が宣すると、「失礼します」と乾が立ち上がった。

「先ほどの発言を撤回します」

「先ほどの発言とは何だ」

「軍法会議の申請についてです」

「分かった。書記役は軍法会議に関する発言をすべて削除するように」

 書記役が五十嵐の方を見たので、五十嵐は大きくうなずいた。

 加藤は抗命罪に問わないことを条件に、軍法会議の申請を撤回させたに違いない。

「何もなければ、これで閉会とする」

「お待ち下さい」と再び乾が立ち上がる。

「まだ何かあるのか」

「はい。今、『久慈』にいる捕虜たちのことです」

 皆の間に緊張が走る。誰もが思い出したくないことなのだ。

「どうか捕虜全員の上陸をお許し下さい」

「それはならん。上陸が許されるのは、船長や軍関係者など貴重な情報を持つ者と女性二人だけだ。彼らは、後に別の船でスラバヤの南西方面艦隊司令部まで送り届ける」

 五十嵐は明快に答えたが、乾は不満をあらわにしている。

「どうしてですか」

「君はもう私の指揮下を離れたのだ。捕虜の処置は七戦隊司令官に相談して決めるように」

「待って下さい。それでは──」

 乾の顔が蒼白になる。むろん捕虜たちを連れ帰れば、迷惑するのは第七戦隊であり、乾は司令部から、「前の作戦のお荷物を持ち帰るとは、どういうつもりだ!」と𠮟責される。

「以上だ。これにて閉会とする」

 加藤が閉会を宣すると、皆は立ち上がり、ぞろぞろと部屋から出ていった。

 だが乾は、ふらふらと五十嵐の席へ近づいてきた。

「どうしても、お聞き届けいただけないのですか」

「私は、すでに君に命令する立場にない」

「では、どうすれば──」

「繰り返すが、君も艦長なら、どうすればよいかは自分で判断すべきだろう」

 五十嵐が立ち上がったので、二人は対峙する形になった。

「私にすべてを押し付け、捕虜ごと厄介払いするのですね」

 その言葉に、最後のせきは切れた。

「貴様は正気か! 敵船を勝手に沈めて、船も物資も海のくずとしたのみならず、捕虜だけ連れ帰ったのだぞ。これは司令部の命令に反することだ。捕虜のことぐらいは自分の判断で行え!」

 誰かと話をしていた加藤が慌てて走り寄るや、乾の肩を押さえた。

「おい、連れていけ!」

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コルク
2019-03-05

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伊東潤

一人の若き弁護士が、“勝者なき裁判”に挑む。圧巻の歴史小説! 太平洋戦争中に起きた非道な捕虜殺害事件。 戦後、BC級戦犯裁判で浮かび上がった、驚愕の真実。 法の正義はどこにあるのか――。 昭和19年3月、大日本帝国海軍...もっと読む

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