加藤が五十嵐の席に近づくと、小声で問うてきた。
「五十嵐さん、どうしますか」
「軍法会議など申請されてはたまらん。とにかく乾を説得しろ」
「法務官が乾に付き添っています。無理な説得はできません」
「分かった」と言って五十嵐が法務官を呼ぶと、入れ違うようにして、加藤が別室に向かった。
五十嵐は軍法会議が行われる場合の些事について、いくつか法務官に質問した。
法務官は乾の方を気にしていたが、五十嵐をないがしろにするわけにもいかないので、その質問に誠意を持って答えた。
五十嵐が「よし、分かった」と言うや、法務官は乾のいる別室に向かった。
──これで二十分は釘付けにできた。
やがて休憩時間が終わり、皆が席に戻ってきた。その時、加藤がうなずいたので、五十嵐は内心、安堵のため息を漏らした。
「それでは、作戦報告研究会を再開する」
加藤が宣すると、「失礼します」と乾が立ち上がった。
「先ほどの発言を撤回します」
「先ほどの発言とは何だ」
「軍法会議の申請についてです」
「分かった。書記役は軍法会議に関する発言をすべて削除するように」
書記役が五十嵐の方を見たので、五十嵐は大きくうなずいた。
加藤は抗命罪に問わないことを条件に、軍法会議の申請を撤回させたに違いない。
「何もなければ、これで閉会とする」
「お待ち下さい」と再び乾が立ち上がる。
「まだ何かあるのか」
「はい。今、『久慈』にいる捕虜たちのことです」
皆の間に緊張が走る。誰もが思い出したくないことなのだ。
「どうか捕虜全員の上陸をお許し下さい」
「それはならん。上陸が許されるのは、船長や軍関係者など貴重な情報を持つ者と女性二人だけだ。彼らは、後に別の船でスラバヤの南西方面艦隊司令部まで送り届ける」
五十嵐は明快に答えたが、乾は不満をあらわにしている。
「どうしてですか」
「君はもう私の指揮下を離れたのだ。捕虜の処置は七戦隊司令官に相談して決めるように」
「待って下さい。それでは──」
乾の顔が蒼白になる。むろん捕虜たちを連れ帰れば、迷惑するのは第七戦隊であり、乾は司令部から、「前の作戦のお荷物を持ち帰るとは、どういうつもりだ!」と𠮟責される。
「以上だ。これにて閉会とする」
加藤が閉会を宣すると、皆は立ち上がり、ぞろぞろと部屋から出ていった。
だが乾は、ふらふらと五十嵐の席へ近づいてきた。
「どうしても、お聞き届けいただけないのですか」
「私は、すでに君に命令する立場にない」
「では、どうすれば──」
「繰り返すが、君も艦長なら、どうすればよいかは自分で判断すべきだろう」
五十嵐が立ち上がったので、二人は対峙する形になった。
「私にすべてを押し付け、捕虜ごと厄介払いするのですね」
その言葉に、最後の堰は切れた。
「貴様は正気か! 敵船を勝手に沈めて、船も物資も海の藻屑としたのみならず、捕虜だけ連れ帰ったのだぞ。これは司令部の命令に反することだ。捕虜のことぐらいは自分の判断で行え!」
誰かと話をしていた加藤が慌てて走り寄るや、乾の肩を押さえた。
「おい、連れていけ!」