法の正義|2ー3

戦後、BC級戦犯裁判で浮かび上がった、驚愕の真実。法の正義はどこにあるのか──。一人の若き弁護士が、“勝者なき裁判”に挑む。昭和19年3月、大日本帝国海軍の重巡洋艦「久慈」は、インド洋でイギリス商船「ダートマス号」を撃沈。救助した捕虜を殺害した。戦犯弁護人として香港にやってきた若手弁護士の鮫島は、裁判資料を読み込むうちに、この事件の──大日本帝国海軍の──抱える闇に気づいていく。圧巻の歴史小説!(水・金 10時更新)

 昭和十九年(一九四四)三月十五日の午後、インド洋作戦を終えた「妙義」「久慈」「高津」の三艦がバタビアに入港した。

 五十嵐が司令官公室で残務処理をしていると、第十六戦隊先任参謀の加藤伸三郎少将が姿を現した。

 加藤は丸顔に汗を浮かべていた。

「五十嵐さん、お疲れ様です」

「君こそ、お疲れ様だな。もう体調はいいのかい」

「はい。何とか快復しました」

 加藤は体調不良で、今回の作戦に同行していなかった。

「そいつはよかった。まさに鬼のかくらんだったな」

 二人が笑い合う。加藤は五十嵐の三期下で、かねてからの知り合いだった。

 真顔になった加藤に煙草を勧めると、一礼して一服した加藤が早速、問うてきた。

「商船を曳航していないということは、拿捕はできなかったんですね」

「ああ、見ての通りだ」

 五十嵐が加藤にてんまつを語る。

「ということは『久慈』には今、百十人余の捕虜がいるというのですね」

「そういうことになる」

「何てことだ。で、その捕虜をどうするんですか」

「まだ結論は出ていない」

「まさか、ここに下ろすつもりでは」

 加藤が問うた時、けたたましくラッタルを上がってくる音がすると、乾が現れた。

「五十嵐中将、あっ、加藤先任参謀もご一緒でしたか。それならちょうどいい」

「乾艦長、お疲れ様でした」

 加藤が敬礼を返しつつ労をねぎらったが、乾は頓着せずにまくし立てた。

「敵船を撃沈し、捕虜を収容してから六日も経ち、捕虜たちが不平を言い始めています。彼らの健康を考慮し、上陸させていただけませんか」

 乾は何かが頭を占めると、ほかのことが目に入らなくなるらしい。自らの目的を達成するために、それなりの手順を踏むべきところを、唐突にそう言われれば、五十嵐とて気分を害する。

 五十嵐の代わりに、加藤が感情を剝き出しにして言う。

「乾君、突然やってきて何を言い出すんだ。君は自分のやったことが分かっているのか」

「えっ」と言って、乾の目が見開かれる。

「君は何を考えているんだ。作戦の趣旨を理解せず、敵船を撃沈し、そのまま見逃してしまえばよい捕虜を拾ってきたんだぞ」

 乾は驚きの目で加藤を見ると、続いて五十嵐の方を向いた。

「待って下さい。司令官から何をお聞きになったのですか」

「私は主観を差し挟まず、状況を語っただけだ」

 五十嵐が落ち着いた口調で言う。こうした場合の司令官の取るべき態度は心得ている。

「そんなはずはありません。撃沈せざるを得ない状況は、司令官も納得されているはずです」

「私は納得しているなどと言った覚えはない。ただ君からの発光信号を受け、二、三の質問を返しただけだ」

「捕虜を処分しなかったことを怒っておいでなのですか」

「それは明日の作戦報告研究会で論じるべきだろう。ここで論争すべきことではない」

 五十嵐は正論で押し切ろうとした。

「それは分かりましたが、ひとまず捕虜たちの上陸を許可して下さい」

「何だと」と言って怒りをあらわにした後、冷静な口調で加藤が続けた。

「捕虜をバタビアに上陸させれば、どこかに収容せざるを得ない。たまたま、われらの基地に寄港したドイツ軍のUボートもいる。捕虜を連れていくとなると、すでに上陸している彼らの目にも触れるだろう。彼らがそれを知れば、軍令部に抗議するはずだ。そうなるとUボートとの共同作戦も、その技術情報も教えてもらえないことになるかもしれない」

「何をおおせになっているんですか」

 乾には、そこまで知らせていない。

「加藤君、そのことは乾君に話していないんだ」

「そうでしたか」

 この命令が出された理由を加藤が説明すると、それを聞いた乾が口を尖らせて反論する。

「初めからそう言っていただければよかったのですが──」

 五十嵐が苛立ちをあらわに言う。

「そうした趣旨を伝えておかなかったのは、私の責任だ。だが乾君、命令は命令だ」

「その通りですが──」

 乾が唇を嚙むと、加藤が言った。

「君の気持ちは分かる。大荒れのインド洋でカッターに乗った人々を放置すれば、ほどなくして波に飲み込まれる。救難信号を打っても、近くに彼らの味方の船がいない限り、彼らが助かる見込みはないだろう。だが、カッターが見えなかったとすればどうだ。カッターは沈み行く敵船の反対舷から下ろされたそうじゃないか。だとしたら見えなかったと言い張っても──」

「そんなことはできません!」

 乾の拳は固められ、目は真っ赤に充血している。

「加藤君」と五十嵐が提案する。

「船長や軍関係者など貴重な情報を持つ者と、女性二人は南西方面艦隊司令部のあるスラバヤに送ろう。残りの捕虜をどうするかは検討を要する」

 南西方面艦隊司令部はペナンからスラバヤに移っていた。

「情報を持つ者をスラバヤに送るのは命令違背ではありませんが、残る者たちは──」

「今更、何を言っても始まらない。捕虜を連れてきてしまったんだ」

「待って下さい」と乾が二人の会話に割って入る。

「捕虜の中には弱っている者もいます。全員の上陸を許可していただけませんか」

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伊東潤
コルク
2019-03-05

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伊東潤

一人の若き弁護士が、“勝者なき裁判”に挑む。圧巻の歴史小説! 太平洋戦争中に起きた非道な捕虜殺害事件。 戦後、BC級戦犯裁判で浮かび上がった、驚愕の真実。 法の正義はどこにあるのか――。 昭和19年3月、大日本帝国海軍...もっと読む

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