昭和十九年(一九四四)三月十五日の午後、インド洋作戦を終えた「妙義」「久慈」「高津」の三艦がバタビアに入港した。
五十嵐が司令官公室で残務処理をしていると、第十六戦隊先任参謀の加藤伸三郎少将が姿を現した。
加藤は丸顔に汗を浮かべていた。
「五十嵐さん、お疲れ様です」
「君こそ、お疲れ様だな。もう体調はいいのかい」
「はい。何とか快復しました」
加藤は体調不良で、今回の作戦に同行していなかった。
「そいつはよかった。まさに鬼の霍乱だったな」
二人が笑い合う。加藤は五十嵐の三期下で、かねてからの知り合いだった。
真顔になった加藤に煙草を勧めると、一礼して一服した加藤が早速、問うてきた。
「商船を曳航していないということは、拿捕はできなかったんですね」
「ああ、見ての通りだ」
五十嵐が加藤に顚末を語る。
「ということは『久慈』には今、百十人余の捕虜がいるというのですね」
「そういうことになる」
「何てことだ。で、その捕虜をどうするんですか」
「まだ結論は出ていない」
「まさか、ここに下ろすつもりでは」
加藤が問うた時、けたたましくラッタルを上がってくる音がすると、乾が現れた。
「五十嵐中将、あっ、加藤先任参謀もご一緒でしたか。それならちょうどいい」
「乾艦長、お疲れ様でした」
加藤が敬礼を返しつつ労をねぎらったが、乾は頓着せずにまくし立てた。
「敵船を撃沈し、捕虜を収容してから六日も経ち、捕虜たちが不平を言い始めています。彼らの健康を考慮し、上陸させていただけませんか」
乾は何かが頭を占めると、ほかのことが目に入らなくなる性質らしい。自らの目的を達成するために、それなりの手順を踏むべきところを、唐突にそう言われれば、五十嵐とて気分を害する。
五十嵐の代わりに、加藤が感情を剝き出しにして言う。
「乾君、突然やってきて何を言い出すんだ。君は自分のやったことが分かっているのか」
「えっ」と言って、乾の目が見開かれる。
「君は何を考えているんだ。作戦の趣旨を理解せず、敵船を撃沈し、そのまま見逃してしまえばよい捕虜を拾ってきたんだぞ」
乾は驚きの目で加藤を見ると、続いて五十嵐の方を向いた。
「待って下さい。司令官から何をお聞きになったのですか」
「私は主観を差し挟まず、状況を語っただけだ」
五十嵐が落ち着いた口調で言う。こうした場合の司令官の取るべき態度は心得ている。
「そんなはずはありません。撃沈せざるを得ない状況は、司令官も納得されているはずです」
「私は納得しているなどと言った覚えはない。ただ君からの発光信号を受け、二、三の質問を返しただけだ」
「捕虜を処分しなかったことを怒っておいでなのですか」
「それは明日の作戦報告研究会で論じるべきだろう。ここで論争すべきことではない」
五十嵐は正論で押し切ろうとした。
「それは分かりましたが、ひとまず捕虜たちの上陸を許可して下さい」
「何だと」と言って怒りをあらわにした後、冷静な口調で加藤が続けた。
「捕虜をバタビアに上陸させれば、どこかに収容せざるを得ない。たまたま、われらの基地に寄港したドイツ軍のUボートもいる。捕虜を連れていくとなると、すでに上陸している彼らの目にも触れるだろう。彼らがそれを知れば、軍令部に抗議するはずだ。そうなるとUボートとの共同作戦も、その技術情報も教えてもらえないことになるかもしれない」
「何を仰せになっているんですか」
乾には、そこまで知らせていない。
「加藤君、そのことは乾君に話していないんだ」
「そうでしたか」
この命令が出された理由を加藤が説明すると、それを聞いた乾が口を尖らせて反論する。
「初めからそう言っていただければよかったのですが──」
五十嵐が苛立ちをあらわに言う。
「そうした趣旨を伝えておかなかったのは、私の責任だ。だが乾君、命令は命令だ」
「その通りですが──」
乾が唇を嚙むと、加藤が言った。
「君の気持ちは分かる。大荒れのインド洋でカッターに乗った人々を放置すれば、ほどなくして波に飲み込まれる。救難信号を打っても、近くに彼らの味方の船がいない限り、彼らが助かる見込みはないだろう。だが、カッターが見えなかったとすればどうだ。カッターは沈み行く敵船の反対舷から下ろされたそうじゃないか。だとしたら見えなかったと言い張っても──」
「そんなことはできません!」
乾の拳は固められ、目は真っ赤に充血している。
「加藤君」と五十嵐が提案する。
「船長や軍関係者など貴重な情報を持つ者と、女性二人は南西方面艦隊司令部のあるスラバヤに送ろう。残りの捕虜をどうするかは検討を要する」
南西方面艦隊司令部はペナンからスラバヤに移っていた。
「情報を持つ者をスラバヤに送るのは命令違背ではありませんが、残る者たちは──」
「今更、何を言っても始まらない。捕虜を連れてきてしまったんだ」
「待って下さい」と乾が二人の会話に割って入る。
「捕虜の中には弱っている者もいます。全員の上陸を許可していただけませんか」
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