法の正義|2ー2

戦後、BC級戦犯裁判で浮かび上がった、驚愕の真実。法の正義はどこにあるのか──。一人の若き弁護士が、“勝者なき裁判”に挑む。昭和19年3月、大日本帝国海軍の重巡洋艦「久慈」は、インド洋でイギリス商船「ダートマス号」を撃沈。救助した捕虜を殺害した。戦犯弁護人として香港にやってきた若手弁護士の鮫島は、裁判資料を読み込むうちに、この事件の──大日本帝国海軍の──抱える闇に気づいていく。圧巻の歴史小説!(水・金 10時更新)

 翌七月八日、まず日本からの証人として、誰を呼ぶかの検討を行った。公判が始まる前に申請しておかないと間に合わなくなるからだ。ただし要請した証人のすべてが来られるとは限らない。

 というのも日本軍には戦死者が多い上、負傷や病で身動きのとれない者もいるからだ。

 東京弁護士会の者がこぼしていたが、香港憲兵隊のケースでも日本から呼べる証人が少なく、たとえ呼べたとしても、命令書などの証拠となるべきものは持参しておらず、少しでも証言に食い違いがあると、証言の価値を認められないことが、しばしばあったという。

 それでも鮫島は、南西方面艦隊司令部参謀長の小山賢司中将、「妙義」艦長の藤堂きよういち大佐、「久慈」の高角砲指揮官で事件当日の衛兵司令だった赤石光司大尉らをリストアップした。

 軍令部の関係者も呼び出したかったが、誰がこの作戦を担当していたかが不明なので、弁護士会の先輩に調査を依頼するにとどめ、次の証人召喚の機会を待つことにした。

 残念なのは、南西方面艦隊司令長官の篠田五郎中将は病死、第十六戦隊先任参謀の加藤伸三郎少将は行方不明、「高津」艦長の河野しのぶ大佐は戦死しており、呼び出したくても呼び出せないことだった。

 こうした証人の召喚は、日本で新たな生活を始めていた者にとっては迷惑な話で、その道中の劣悪な環境も、彼らに肉体的かつ精神的負担をいる。だが、こちらは生きるか死ぬかの瀬戸際なのだ。そんなことに構ってはいられない。

 おそらく河合の方でも証人をリストアップしているはずだが、召喚要請した証人の情報をオープンにしていいという指示が英国側からないため、互いに黙っていた。

 さらにバレットも検事側の証人を呼び出しているはずで、三つ巴の戦いは、すでに始まっていた。


 この日の午後は資料の整理にあて、翌日、いよいよ五十嵐と乾が収監されているというスタンレー・ジェイルに出向くことにした。

 スタンレー・ジェイルは、南シナ海に突き出た形のスタンレー半島にある。ちょうど香港島の中心地とは反対の南側で、鮫島たちの宿舎からジェイルに着くまでには、車で一時間半ほどかかる。イギリス軍から手配された軍用トラックの荷台に乗った鮫島と助言者のアマン・ナデラ少尉は、舗装された道をスタンレー・ジェイルに向かった。運転席と助手席にはイギリス軍兵士が乗っている。

 香港中心部から南に向かい、風光明媚なレパルス・ベイ(浅水湾)を通り過ぎると、道は上り坂になる。浅水湾道と呼ばれる舗装された比較的広い道から、赤柱峡道という未舗装の狭い道へと入り、さらに曲がりくねったあいを上っていくと、白亜の高塀をめぐらす香港要塞が眼前に姿を現す。

 そこを右に折れると突然、眺望が開ける。青空の下、スタンレー・ベイ(赤柱湾)が一望の下に見渡せた。その向こうには薄靄に遮られながらも、クーロン群山が連なっている。

 その息をのむような眺めに、鮫島は陶然とした。

「停めますか」

 ナデラが問うてきたので、「もちろん」と答えると、ナデラの合図でトラックが停まった。

 鮫島はトラックを降りたが、ほかの三人は関心もなさそうに車内や荷台にいる。

 ──これが香港か。

 切り立った崖の上からだと、スタンレー・ベイが庭池のように見え、そこを走るジャンク(木造帆船)も豆粒ほどの大きさにしか見えない。沖合に停泊している大型船は、イギリス東洋艦隊のようだ。

 ──収監されている人々は、こんな風景を見ることもなく暗闇の中に閉じ込められているのか。

 それを思うと気の毒になる。だが戦犯容疑者全員が無罪ではないのだ。殺された人々の無念を思えば、そのくらいのことは当然の報いのような気もする。

 ──いずれにせよ、正しい裁きを受けさせるだけだ。

 再びトラックに乗ると、五分ほどで目的地のスタンレー・ジェイルに着いた。

 同乗している兵の一人が手続きに赴くと、すぐに正門のだいてつが開いた。

 中に入るとトラックから降りるよう指示され、訪問者の署名簿にサインをさせられた。そこを通って、身体検査を受けた後、ようやく粗末な大机と椅子だけがある接見室に通された。

 鮫島は椅子に腰掛けたが、ナデラは立ったまま、鉄格子のはまった窓から外を眺めている。ここまでの車中でもナデラは必要最小限のことしか口にせず、鮫島と会話することを避けているように感じられた。

 ──バレットとは大違いだな。

 同じように日本人に反感を持っていても、イギリス人のバレットとインド人のナデラでは、日本人に対する態度に天地の開きがある。

 無理に話し掛けることもないと思った鮫島は、これから会うことになる五十嵐に思いを馳せた。

 ──果たして、どのような人物なのか。

 これまで聞いた話や調書からすると、五十嵐は厳格で無骨な日本軍将校の典型のような人物という気がする。この裁判に不満を抱いているのは明らかで、怒りとふんまんをぶつけられる覚悟をしておかねばならない。

 やがて遠くから、いくつもの鉄扉が開閉される音が聞こえてきた。

 ようやく眼前の鉄扉が開くと、二人の看守に左右から腕を取られた男が姿を現した。

 ──これが五十嵐中将か。

 それは、写真で見た五十嵐中将とは似ても似つかない年老いた男だった。

 一人の看守が手錠を外すと、もう一人が椅子に座るよう指示する。それを見ていると、看守の指示がなければ何をすることも許されていないと分かる。

 鮫島の五十嵐に対する第一印象は、あまりよいものではなかった。大柄な看守に挟まれ、身を縮めているかのように見えるその姿は、今の日本の置かれた状況と酷似していると思えたからだ。

 短機関銃を提げた二人の看守が、五十嵐の背後の壁際に立つ。いつの間にかナデラも、鮫島の背後の椅子に腰掛けていた。

「君が弁護人か」

 五十嵐がかすれた声で問う。

「はい。よろしくお願いします」

 鮫島が慌てて頭を下げると、五十嵐は大儀そうに言った。

「よろしく」

 ──これが、あの帝国海軍の中将なのか。

 鮫島は、これまでの人生で中将などという高位の軍人に接したことはなかったが、ここまで不愛想で無礼なものとは思わなかった。

「驚いたかね」

「何に、ですか」

「この顔だよ」

 頰がこけて骨と皮だけになったその顔は、ところどころに打撲の跡がある。そこからは、気力の欠片かけらも感じられない。

「いえ──、はい。驚きました」

「驚くのも無理はない。ここでの生活は辛いからね」

 五十嵐は前歯の欠けた口を開けて笑った。目の下には青黒いくまがあり、涙袋も垂れ下がっているためか、その顔は七十を過ぎた老翁にしか見えない。

 だが最も目を引くのは、その片目が腫れていることだ。

 ──元中将であるにもかかわらず殴打されているのか。

 話には聞いていたが、日本軍将校の尊厳など一顧だにしないイギリス軍兵士たちに、鮫島は怒りを覚えた。

「ここのジェイルに憲兵たちが入っている頃は、看守たちも荒れていてね。毎夜、誰かの房に行っては殴る蹴るの暴行を働いていた。私のところにも来たよ。だが未決囚の一人が瀕死の重傷を負ったことで、イギリス政府もここの実態に気づき、看守たちに暴行を禁じたんだ。それからは随分と楽になった」

 ピーク時には二百人が詰め込まれていたというスタンレー・ジェイルも、戦犯裁判が峠を越えた今は、四十人ほどが収監されているだけだという。

 イギリスは、ほかの戦勝国に比べても終戦直後の戦犯容疑者に対する扱いがひどく、シンガポールのチャンギー刑務所では、相次ぐリンチで死者が続出していた。判決の出ていない未決囚でもリンチによって殺すので、「チャンギーの地獄」と呼ばれていた。

 日本軍に対して最も憎しみを抱いているはずのオーストラリアやオランダの管理する戦犯収容所からは、リンチによる死者がほとんど出ていないことを考えると、イギリス軍の苛烈さが際立つ。

「それは、たいへんでしたね」

 鮫島には、それ以外の言葉が見つからない。

「ああ、ここはひどいものさ。飯に腐った魚を交ぜたり、唾を吐きかけていたりで、最初のうちはとても食べられなかった。まあ、今は慣れたけどね」

 五十嵐が開き直ったような笑みを浮かべる。

「そんなひどいことを──」

 鮫島が絶句する。

「こんな話をしてすまないね。弁護人に話すようなことではなかった」

「いいえ、構いません。あっ、そうだ。これを──」

 鮫島が差し入れの煙草数箱とライターを渡す。

「ありがたい」

 目の前にかざすようにして礼を言うと、五十嵐は早速、一本に火をつけた。

 肺の奥までゆっくりと煙を入れて吐き出すと、五十嵐は吸いさしの煙草を灰皿に置いて言った。

「まず、私の考えから言おう」

「考えですか」

「そうだ。公判に対しての私の姿勢だ」

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伊東潤
コルク
2019-03-05

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一人の若き弁護士が、“勝者なき裁判”に挑む。圧巻の歴史小説! 太平洋戦争中に起きた非道な捕虜殺害事件。 戦後、BC級戦犯裁判で浮かび上がった、驚愕の真実。 法の正義はどこにあるのか――。 昭和19年3月、大日本帝国海軍...もっと読む

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