七月七日、鮫島と河合はペニンシュラ・ホテルにある戦犯部起訴係に出頭した。そこで待っていたのは、例の不愛想で居丈高な大佐だった。
「失礼します」と言って入室すると、大佐は葉巻を吸いながらサウスチャイナ・モーニング・ポストを読んでいた。むろん挨拶もせず、新聞から視線も外さない。
「昨夜はお楽しみだったようだな」
大佐が唐突に言う。
──バレットが伝えたのか。いや、憲兵に違いない。
だが今更、言い訳しても見苦しいだけだ。
鮫島は素直に謝罪した。
「貴国の手を煩わせてしまったことを深くお詫びします」
「Annoying guys」
大佐が「迷惑な奴らだ」と吐き捨てた。
「われわれは飯を食いに行っただけだ」
河合が拙い英語で言う。
「よせ」
鮫島がたしなめたので河合は口を閉ざしたが、どうやら大佐には通じていないようだ。
「まあ、君たちが夜遊びして命を落としても、こちらは全く関知しない」
「夜遊びではありません」
今度は鮫島が言ったので意味が分かったらしく、大佐が乱暴に新聞を置いた。
「この地で君たち日本人がどれほど憎まれているか、思い知るがいい」
確かに日本軍の香港占領は、香港社会に大きな地殻変動をもたらした。それによって運命を変えられた者もいるだろう。だがイギリスは阿片戦争によって力ずくで香港を奪い、中国人を奴隷のように使役していたのだ。日本軍の進出には、たとえそれが建前だとしても、アジアの同胞を解放したという大義があった。
だが今更、何を言っても始まらない。日本は戦争に負け、イギリスは戦勝国の一つに名を連ねたのだ。
鮫島が口をつぐむと、大佐はさも得意げに一枚の書類を手に取った。
「さて、今日は君たちの担当を告げるんだったな」
「一昨日、そう聞きましたので、こうして出頭してきました」
「当初は、君ら二人で被告一人の弁護を行わせるつもりでいた。『ダートマス・ケース』は、それだけ重大な案件だからな。ところが昨日、東京から来る予定の弁護士たちが来られなくなったという一報が届いた」
二人が顔を見合わせる。
「東京裁判で弁護士が足らないのか、シンガポールに回されたのかは分からない。とにかく香港に来ないことだけは間違いない」
東京裁判や戦争犯罪の多かったシンガポール法廷が優先されるのは、分からないでもない。
「君らには、それぞれ別々に、二人の被告の弁護に当たってもらう」
──何だって。
河合と共に裁判に臨むつもりでいた鮫島は啞然とした。
「では、われわれのどちらが、被告のどちらを担当するのですか」
河合が問う。
大佐がもったいを付けるように、ゆっくりと葉巻箱から新しい葉巻を取り出して火をつける。
「ミスター河合には乾を、ミスター鮫島には五十嵐を担当してもらう」
──俺が五十嵐さんの弁護に回るのか。
二人が黙っていたので、「分かったな」と大佐が念を押す。
戸惑いながらも二人がうなずく。
──つまり河合と対立することも考えられるということか。
二人同時に行われる公判なので、五十嵐と乾の証言が齟齬を来す可能性があり、そうなれば二人も対立関係になる。
河合も同じことに気づいたのだろう。鮫島に質問を促すような視線を送ってきた。
その意を察した鮫島が問う。
「それぞれが担当する被告の立場だけを考え、弁論を展開すればよいのですね」
「そういうことになる。公判を進めていけば分かることだが、五十嵐と乾の証言が食い違うことも考えられる。つまり君らは対立する可能性がある」
鮫島は覚悟を決めねばならないと思った。
「われわれは立場を違えようと、真実を追求し、法の正義を守るだけです」
「結構なことだ」
大佐は鼻で笑うと、メモを見ながら続けた。
「裁判長はアンディ・ロバートソン中佐。戦争が終わってから、ここに送られてきた法務中佐だ。陪席するのはパウエル少佐とカーター少佐だ。こいつらも戦場には出ていない」
おそらくこの大佐も、戦場に出たことはないのだろう。だがアジアに長くいるだけで戦場に出たつもりになり、イギリス本国にいた連中を見下しているのだ。
「さて、検事だが──」
いかにも思わせぶりに二人を上目遣いに見るや、大佐は口元に笑みを浮かべて言った。
「検事はジョージ・バレット。君らの世話役から転じる」
──つまりバレットも加えて、三つ巴の弁論合戦になるということか。
鮫島と河合は愕然として顔を見合わせた。
「昨夜、君らを救ってくれたバレットとは、法廷で争う関係になる」
大佐が椅子にふんぞり返ると言った。
「君らが張り切るのは勝手だが、徒労に終わるぞ。素直に罪を認めれば減刑ということもあり得る。冒頭の罪状認否で、下手に『Not guilty』などと言えば、裁判も長引くし、裁判官たちの心証を悪くする。それで死刑になった者もいるくらいだ。私の言っていることは分かるな」
二人がうなずく。
イギリス軍の戦犯裁判では、まず各地域の軍司令官名で裁判を開始する旨が決定される。それに従って日本国内に帰っている、ないしは現地に抑留されている元日本兵が被告となる。被告には起訴状やその根拠が示され、当該裁判所に連行される。
裁判の開始時に罪状認否が行われるが、「有罪」を認めた場合、すぐに判決の検討に入るが、大半は「無罪」を主張するので裁判開始となる。
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