最終回】勝者は死屍累々の上に立っている。

【最終回】
ついに野球を諦めた真一は、焼鳥屋を経営し、成功する。
結婚し、息子も生まれた。
イチローはメジャーリーグで歴史的な記録を更新している。
自分の一生を狂わせる天才と出会ってしまった俺は、運が悪すぎた。
イチロー引退の報を受け、樋口毅宏が緊急書き下ろし!

*本作品はフィクションであり、実在のいかなる組織・個人、また媒体とも一切関わりのないことを付記致します。

 真一が帰ってこないと紗智から連絡を受けたアキラは、閉店後の寒空の下、自転車で外に飛び出した。

 真一を探す当てはついていた。幾つか野球場を回ればいいのだ。

 アキラの予想通り、池尻にある無人のグラウンドに、真一を見つけた。何度かここで草野球をした。

 真一は居酒屋の作業着で、バットを振っていた。それは異様な光景だった。

「社長」

 アキラの声に、真一は振り返ろうとしない。

 アキラは真一の気が済むまで、素振りが終わるのを待っていた。

 やがて力尽き、グラウンドに尻もちをついた。肩で息をしながら、絞り出すように真一は呟いた。

「ほんとは俺があいつになるはずだったんだ」

 あいつとは誰のことか、アキラは問うこともなかった。

 ただ、当たり前のように人が言うようなことを、アキラも口にしてみせた。

「いったい何が不満なんですか。そりゃプロ野球選手として満足な人生を送れなかったかもしれない。でも今は社長になって、成功して、奥さんも可愛い子どもいるじゃない。あと何を望むって言うの」

「忘れられない」

 真一はぽつりと漏らす。

「逆転タイムリーを打った、あの瞬間。観客の声援。今でもよおく覚えている」

「いいじゃない、それで! 俺なんかそんな思い出さえないよ。俺たちは人より恵まれている。みんなが憧れるプロ野球選手になれたじゃない。短い間だったけど、プロのユニフォームを着れたじゃない」

 アキラの声を真一は制する。

「おまえだって思ってんだろ。この人生ではなかったはずだって」

「まだそんなこと言ってんのかよ! こっちは生活に追われてんだ。仕事があるんだ。夢はとっくに終わったんだ!」

 アキラは驚いた。真一は泣いていた。

「どうして、どうして」

 続く言葉は、自分の涙にかき消された。


 真一は病院で診断を受け、療養所に入院した。

 野球のことをあまり考えないようにと、医師や看護師から言われたが、真一は彼らの目を盗み、よせばいいのにと自分で思いながらも、テレビにイチローが出ているのを見ていた。

 イチローは、インタビューに答えていた。

「自分と同じぐらい優れた選手はいっぱいいました。でも、残念ながら消えていった。あの人たちはいまどうしているだろうと……。

 ときに、自分は運だけでここまで来たのではないかと思うことがあります」

「それはイチローさん、考えすぎでしょう」

 多少の言葉遊びと、嗅覚と愛嬌だけで世の中を泳いできた元コピーライターが下卑た笑みを見せる。妻は女優だ。

 真一は考える。この男はこれまでどれだけの汗を掻いてきただろう。「世渡りの上手さ」という世界競技があったら、日本代表は間違いないだろう。

「運が良かったなと自分でも思います」

「これほど努力をしてきたイチローさんでもですか!」

 男は大袈裟に答えた。

「でもボクが訊いた話では、高校球児だったときに事故を起こして、ピッチャーとしてはやっていけなくなったそうですね?」

 イチローは深く頷く。

「ケガがなかったら、僕はピッチャーを続けていたでしょうね」

「バッターに転向していなかったら、今のイチローさんはなかったかもしれない」

「ね? だから運が良かったなって思うんです」

 イチローは笑った。

 運、運、運。確かに、運がすべてかもしれないと真一は考える。

 詮無い問いかけがいつまでも頭の中をぐるぐると駆け巡る。

 あのとき、車とぶつかっていなかったら?

 あの試合で、雨が降らなかったら?

 あのとき、イチローと出会っていなかったら?

 人生を歩み始めた少年野球のチームに、自分の一生を狂わせる男がいた。

 あまりにも相手が悪すぎた。運が悪すぎた。あいつに運を吸い取られた。

 真一は一時期、その手の本を読み漁った。敗れ去る者たちの物語。

 大きな栄光の一方で、裏街道を歩かざるを得なかった人たちがいる。

 光が強いほど影もまた濃い。

 勝者は死屍累々の上に立っている。その山が高いほど、人々の称賛は大きい。入ってくる金も、地位も巨大なものになる。

 いつしか宮本武蔵より佐々木小次郎を、戦国武将では明智光秀に自身を投影していた。

 いや、小次郎も光秀もましなほうだ。

 巨星のそばに輝く小惑星として、いつまでも人々が崇めてくれる。

 自分は星屑にもなれない。

 そして真一は思う。

 —自分にも、運というものがあるだろうか。

 真一はその夜眠る前に、服用せずに隠し貯めてきた薬を一気に胃に流し込んだ。

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小説・イチローになりたかった男

樋口毅宏

イチロー引退の報を受け、小説家・樋口毅宏が緊急書き下ろし! 体が大きく野球センスもあった内之田真一は、自分の輝ける将来を疑ったことはなかった。そのスポーツ少年団に、一朗がやってくるまでは。 天才とは何かを問う物語。

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azu_chabi |小説・イチローになりたかった男|樋口毅宏|cakes(ケイクス) どこまでがリアルで どこからがフィクションか 翻弄される幸せ これが樋口毅宏だ! 大好きだ!! https://t.co/gzcZksWpAU 4ヶ月前 replyretweetfavorite