*本作品はフィクションであり、実在のいかなる組織・個人、また媒体とも一切関わりのないことを付記致します。
延長戦
プロ野球選手として終わっても、その後の人生は続いた。
腹は減るし、トイレには行くし、生活をしなければならなかった。
体が大きいと食べる量も多い。自分から野球を取り上げると、無職大鯨が残ったと自虐した。
プロ野球選手時代のタニマチを頼って、営業をやってみた。ウォーターサーバーを販売する仕事だった。一年ほど続いたが、馴染みになった居酒屋の店長から、給料を倍出すからうちに来ないかと誘われた。
居酒屋でいちから修行した。焼き鳥の打ち方から、営業終了後の車による送迎サービスまで。真一はよく働いた。
「俺の思っていた通りだった。野球を長くやってきたような奴は根性が違う」
真一の自尊心はいっとき満たされた。
二年後、真一は独立することにした。
数年ぶりに訪れた実家には、真一があげたサヨナラ打のボールが大事に飾られていた。
自分の店を始めると伝えると、母親は真一がプロ入りするときにくれた契約金三千万円を用意してくれた。母親は一円も手を付けていなかった。
「ありがとう、ありがとう」
真一は母親に何度も頭を下げた。親には一生敵わないと思った。
池尻に建てた真一の店は繁盛した。
元プロ野球選手ということで取引先からの信頼は篤かった。
ただし、真一の現役時を知る者はいない。
「なんだ、巨人じゃないのか」と露骨に残念な顔をする者もいた。
オリックスとわかると、全員が全員、食い込み気味で聞いてきた。
「じゃあイチロー知ってますか!?」
「少しね」
真一はそれ以上話さなかった。
店の営業が安定する頃、結婚した。相手は客として来ていた二十八歳のOL、紗智だった。
紗智は気立てのいい娘で、寿退社して真一の店を手伝ってくれた。
あるとき紗智は店のトイレに駆け込んだ。おめでただった。
翌年、真一は父親になった。父親がいない自分が父親になれるのか心配だった。
我が子を胸に抱きながら、母になった紗智に感謝した。
息子には「真一」から一字を取って、「真輔」と名付けた。
渋谷の二号店も順調だった。
「おまえに客商売の才能があったなんてなあ」
店に高校時代の先輩、稲葉篤紀が来てくれた。オリックスをクビになったときに電話で報告して以来だった。独立して一店舗目のときも花輪を出してくれた。
「俺なあ、北海道に行くんだ」
稲葉は法政大学を卒業後、ヤクルトスワローズにドラフト三位で入団。ベストナインに選定されたこともあったが、近年は故障と不振に喘いでいた。
「FA宣言したけどどこも手を挙げてくれなかった。俺レベルじゃあなあと思ってがっかりしていたら、日ハムから、移籍という形ならどうかって」
「新天地、おめでとうございます」
真一の口からついて出る。嫉妬はなかった。
シメに真一がレシピを考えたラーメンを出した。稲葉は美味しそうに食べてくれた。
「むかし、おまえによくラーメンを作ってもらったよなあ」
稲葉は、東京に来たら、また顔を出すわと去っていった。釣りはいらないと、大きなお金を置いていった。
店を開いている限り、好まざる客ばかりではない。
大学時代の後輩、飯塚アキラは閉店後も居座り続けた。
アキラもまた挫折していた。真一がオリックスに入団したのと同じ年、ドラフト三位で巨人入りしたものの、一度も一軍の機会はなかった。創設したばかりの東北楽天ゴールドイーグルスに、トレードに出されて、翌年引退した。
真一は、アキラと飲むのが好きではなかった。選手時代にもオフに何度か飲んだことがあったが、アキラの話は聞くに堪えないものが多かった。
真一はプロ野球の世界に足を踏み入れた者として、つくづくわかったことがある。
一流選手ほど飲みの席でも野球の話しかしない。
二流、三流の選手は、愚痴や妬み、噂話ばかり口にする。
「あいつが一軍にいれたのはコーチに盆暮れの付け届けを怠らなかったからだ」
「監督と同じ大学閥だから贔屓されている」
「〇〇がレギュラーなのは合コン要員として重宝されているから」
真一はあきれてモノも言えなかった。
「野球をやめて、いまは何をしているんだ」
「色々だよ、色々。こう見えて景気がいいんだ。先輩に投資しようかな。根っからの焼鳥屋だから、金を稼ぐのは上手そうだし」
店のテレビにはイチローが映っていた。こんなときに、こんな場所に、顔を出さなくていいのにと真一は思った。
イチローはこの年、NPB/MLB通算二〇〇〇本安打を達成した。
十月には二五七安打を打ち、八十四年間破られることのなかったジョージ・シスラーのメジャー歴代シーズン最多安打記録を更新した。
その日、第二打席、センター前に球を弾き返した瞬間、セーフコ・フィールドの観客はスタンディングオベーションで割れんばかりの喝采を日本から来た小柄な選手に送った。
イチローは観客席に向かう。その中にはジョージ・シスラーの娘がいた。ふたりは手を取り合った。
アナウンサーが興奮しながら話す。
「面白い話があります。ジョージ・シスラーさんは、一八九三年三月二十四日生まれて、一九七三年三月二十六日に、八十歳で亡くなっています。一方イチロー選手は一九七三年十月二十二日生まれ。つまりジョージ・シスラーさんが亡くなって七ヶ月経った後に、イチロー選手が生を受けているんですね。〝イチロー選手はジョージ・シスラーさんの生まれ変わりではないか?〟 〝ジョージ・シスラーさんが、自分の記録を破るために、もう一度生まれたのではないか〟と、インターネットではそんな書き込みが多数見受けられています」
美人のアナウンサーが訊ねる。
「当のイチローさんは、そのことについて何とコメントしているのですか?」
アナウンサーはまるで自分の手柄のように話す。
「こうおっしゃっています。〝次に破るのも、また自分でありたい〟」
真一はふと考える。
——そうか、じゃあ俺が生まれ変わっても、イチローにはなれないんだな。
そんな物思いを邪魔するように、目を真っ赤にした酔漢が、酒臭い息を吐いた。
「先輩さ、いっときイチローを目の敵にしていたよな」
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