迷惑な客、ムラタさん
行きつけのバーに、ムラタさんという迷惑な客がいる。厨房機器の製造・設計施工、販売の仕事で営業をしている。つまり仕事で毎日飲食店を渡り歩いている。ラグビー選手のような大きな体躯で、いつも深い時間に汗をふきふきやってきて、旨そうにジントニックやらバーボンを飲む。
何が迷惑かってこの人の、仕事の合間に食べる昼ご飯の話がやたらに旨そうなのだ。「あそこのカツカレーはピカイチッ!ぶ厚くて、表面はカリッカリ。俺はあんなの見たことがない」。「ここの生姜焼きはにんにくがたまらないんす」。静かなバーで、みなに聞こえぬよう自分の生つばを飲み込むのにひと苦労するほど、味の説明がうまい。食べることが大好きな上に、仕事も飲食店が主戦場。その舞台裏も見ているので、丁寧に作っている店もよく知っている。田町、神田、中野、大井町……。都内のB級グルメは食べ尽くしていそうな勢いで、旨い定食屋の話が止まらない。
彼に会うと必ず私は帰りにひとりでラーメン屋に寄ってしまう。夜中1時に。酒の後のラーメンという悪しき習慣は、ダイエットのため20年以上封印していたのに!
そんな迷惑なムラタさんイチ押しが、キッチンABCのオリエンタルライスなのである。池袋の人たちに古くから愛されていて、安くておいしい。定食と言ったら、ここは外せないでしょう。とにかく行ってみてください。絶対間違いなく旨いっすから。促されるように、私はスマホに店名をメモをする。じゃあ、と席を立つと、彼のつぶやきが背後から聞こえる。あ、あそこのオムカツカレーもいいんだよなあ。

都電荒川線が通る大塚駅から、徒歩5分
みんなの好きな洋食、全部入り
キッチンABCは池袋東口店、西池袋店、南大塚店、江古田店がある。私は南大塚店に行った。11時〜22時まで休憩なしの通し営業をしているのがここだけだったからだ。都営住宅の1階。大塚駅からは数分歩く。遠くからも見える、店名に縁取りされたピカピカした電飾の看板を見て、思わず心の中でムラタさんを疑った。──ほんとにおいしいんだよね?
扉を開けると、雰囲気はガラリと変わる。白い壁に白いテーブル。すみずみまで清潔で、女性一人でも入りやすい。名物を説明するアジア系の女性従業員が、にこにこと感じがよく、それを見守るオープンキッチンのシェフたちの目が温かい。「黒いカレーは人気あります。私も好き。でも初めてなら、やっぱりオリエンタルライスはどうですか? 人気です」
マニュアル通りでない接客が印象的だ。
甘辛いタレが豚バラにからむオリエンタルライス680円
間もなくやってきたそれは、見たことがあるようでない料理だった。ご飯の上に豚肉、ニラ、玉ねぎなど甘辛く炒めた具材がのっていて、中央には月のような黄身が。
その前に、ひと口すすった味噌汁にまず大きく驚かされる。背脂の浮かぶコクのある豚汁で、とにかく具だくさんなのだ。
定食の良し悪しは、主役以上に脇役が重要と私は信じている。歯ざわりのいいキャベツや、着色されていない自家製の漬物。一から手作りの惣菜の小鉢。そして、味噌汁が具だくさんであること。とにかくすべてに、「量と手間」をケチらない店に惹かれる。
キッチンABCの豚汁は、ここ最近食べた定食の中で、満足度ナンバーワンだった。細かく刻まれた油揚げ、ごほう、大根、人参、しいたけ、豆腐、ねぎがたっぷり。ひと混ぜしたとき、箸が汁の中で泳いで、ぎりぎりわかめが1〜2枚ひっかかるチェーン店の、ひどく心もとないわびしい味噌汁とは、ワケが違う。ひと口豚汁をすすっただけで、たくさんの食材が口に飛び込み「ああ、この店は当たりだ!」とガッツポーズしたくなる。いい定食屋と出合いたいなら、味噌汁を侮ってはいけない。
背脂が浮かぶ豚汁は具がたっぷり
さて、主役のオリエンタルライスである。豚バラが玉ねぎのスライスと共に甘辛くからんだ、にんにくのタレが後をひく。ひと言で言うと、自家製タレで作った焼き肉ご飯、がこの味の説明に一番近い。そこに大きめに切ったニラの中華な風味と、黄身のまったりとしたコクが誠に相性がいい。
結構元気がないときも、これはひと皿ぺろりといけるのではないか。そんな、人を元気にする旨さとエネルギーに満ちたメニューなのである。
別日。黒いソースがどろりとかかった大きなオムカレーを食べた。ムラタさんが最後につぶやいた、あれだ。
オムカレー800円。ドライカレーを包んでいる
スプーンを、ふわりと黄色い卵に差し入れると、あっと驚く。中はチキンライスでもケチャップライスでもなく、ドライカレーだった。オムライスとカレールウとドライカレー。なんだなんだ、誰もが好きな洋食全部入りじゃないか。これを考えた人は、すごいぞ。
ドライカレーは、ただ黄色味をつけた薄味ではなく、単品で食べてもおいしかろうと思うくらい、しっかり味が濃くておいしい。そして、こんもりと盛られたシャッキシャキのキャベツがまた、もう……。玉ねぎのすりおろしが入った薄オレンジ色の自家製ドレッシングがまろやかで他にない味なのである。
オリエンタルライス680円。オムカレー800円。創業1970年。
安さと旨さの極上のバランスと、オリジナルを追求するチャレンジ魂に胸をつかまれた。これは、豊島区の隠れた宝ではあるまいか?
逆転の発想、反逆の料理
オーナーの稲田義雄さんは快活で、言葉に説得力のある経営者だ。店は、投資家の父が創業し、引き継いだもの。だが、金は出すが手も口を挟まない父と違い、彼は大学卒業後、ホテルレストランでの修行を経て、50歳までコックとして26年間、自分の店の厨房に立った。
「やめたいとか、待遇とか、コックさんからの申し出に何も言えない父を中学生の頃からずっと見てきたので、自分は実際に店頭で鍋を振って、ものを言える経営者になろうと思っていました」
コック兼店主兼オ—ナーとは、なるほど説得力があるわけだ。
現在、池袋の2店は15時半から17時までいったん閉店する。でないと、客がひっきりなしで、従業員が休めないからだ。創業49年経てなお飽きられず、行列が絶えないが、じつは、と稲田さんは意外なことを言う。
「昔はたいして、はやっていなかったんです」
創業当時は大塚、要町と場所も池袋の中心からは外れていた。父は競走馬や山っ気のある商売に夢中で、味のことはあまりわからない。
24歳で入店した稲田さんは、まずオリエンタルライスを考案した。
「仕事帰りに店のコック仲間と近所のラーメン屋さんに寄ってたんです。そこで、豚バラとニラを炒めたのがラーメンにのってた。具はすごい旨いんだけど、ラーメンに合わない。これ、白いご飯なら合うんじゃないか?って、みんなで話したのがきっかけです」
オリエンタルというネーミングは、料理事典を見ていて「なんとなく」決めてしまったそうだ。「東洋的なっていう意味があるから、ニラとにんにくだし、ちょうどいいかって」。
黒いルウの材料は「企業秘密」とのこと
オムカレーの誕生は、彼のコックの経験が生きている。
「ホテルのレストランに勤めていたとき、一人がフライパンにかかりきりになってしまうオムライスは、シェフが嫌がると知った。鍋も2つ使いますしね。ランチでそれやってると回っていきませんから」
だったら、うちでやってやろうと決めた。立地がよくない小さな店が大店に勝つには、個性・味・量・値段の4つが満点の料理がないと続かない。
だが、オムライスの中身が決まらなかった。チキンライス、ケチャップライス、ガーリックライス。どれもインパクトに欠ける。
一方、当時黒いルウのカツカレーの人気店が話題を呼んでいた。稲田さんが行列に並び、いざ運ばれてきたそれを見て思ったことは、「白いご飯に黒いカレーって、なんだか葬式みたいだな……」。
稲田さん、色彩に関しては独特の感性を持っている。私は葬式とは思わないのだが、この独特の違和感が、30年も愛され続けるヒット作を作る原動力になることは後述するとしよう。
色彩に敏感な彼は、自分がやるなら、ご飯は黄色にしたいと思った。ところがサフランライスにしても、材料が高価な割に味に変化がない。バターライスも弱い。
そして彼は気づいた。
「毒をもって毒を制す。カレーにはカレーだ! ご飯もドライカレーにして、そこに黒いルウをかけよう」
さらにダメ出しのようにもうひとひねり。──ドライカレーをオムレツで包んでしまおう!
こうして、30年前、味のしっかり濃いドライカレーを卵で包んだオムライスに、黒いカレーがかかった黄色と黒のオムカレーが生まれた。ありそうでなかったこのメニューが本格的にブレイクしたのは、ジャニーズタレントの情報番組である。
当時、一緒に出演していた和食の料理人、道場六三郎がオムカレーをほおばり、テレビでこうコメントをした。
「これは僕の料理と同じ。挑戦している。反逆の料理だね」
うれしかったですねえ、と稲田さんは目を細める。「僕がまさに志していた、目指していた料理だから」。
高級和食の料理人は800円のオムカレーを掛け値なしに評価した。それが心に響いた。ところが、ここから悲劇が始まる。