*本作品はフィクションであり、実在のいかなる組織・個人、また媒体とも一切関わりのないことを付記致します。
八回表
球団に真一を採るよう強く薦めたスカウトの三輪田勝利は、イチローを発掘した人物だった。
「きみのことは大学時代から目を付けていたのに、ウチに来てもらうのが一年遅れて申し訳なく思ってるよ」
優しそうな笑顔で、真一はすぐに気を許せた。
「イチローと少年野球が一緒だったんだって?」
真一は、小さな声で返した。
グリーンスタジアム神戸の初日、真一を含む新人選手は挨拶に回った。
黙々とトスバッティングを続けるイチローは手を止めて、軽く会釈した。
真一は目が合った気がしたが、イチローはすぐにバッティングに戻った。
——やはり俺のことなど記憶にないよな。覚えていたとしても、もはや対等ではない。相手はあのイチローなのだから。
その場を離れた直後、高校を出たての選手たちが色めきだった。
「すげえ、ホンモノだった」
「やっぱオーラが違うよな」
「これからあんな凄い人と一緒にプレイできるのか」
次の挨拶回りに行こうとしたとき、通路からイチローが駆けてきた。
「シンちゃん!」
真一は、イチローに正面から両腕を捕まれた。
「俺だよ、一朗! 豊山町スポーツ少年団の!」
周囲が騒然となる。いつも沈着冷静なイチローが、名もなき新人選手を前に興奮していた。
「懐かしいなあ。高校でも戦ったよな。あのときもいい試合だった」
真一は曖昧に頷くのがやっとだった。
他の選手が真一を見る目が変わった。イチローのおかげで、新人ながら下にも置かない扱いになった。
「内之田さん凄いっスね! イチローさんとお知り合いなんスか!」
「イチローさんはどんな子どもだったんですか?」
イチローの後光により、真一は同期からチヤホヤされた。ちょっと鼻が高かった。
かといって、ベンチの真一の扱いは変わらない。
二十四歳になろうとしていた真一は、即戦力として期待された。
様々な特徴を持つ選手が揃っていた。一五〇キロの豪速球を投げるエース、多彩な変化球と精神力を有する守護神、一塁到達タイムが五秒を切るスプリンター、守備には絶対的な信頼を寄せられているベテラン、ここ一発の勝負強さを持つ「代打の神様」、ピッチャー以外ならどこでも守れるユーティリティ・プレイヤーなど、レギュラー陣は全員が何かのスペシャリストだった。
真一は感じ入る。
子どもの頃、ピッチャーで四番の集まりがここだ。ふるいを掛けられ、残った者だけがここに来て、さらにふるいを掛けられる。
憧れのプロ野球選手になれた。しかし自分はまだとば口に立ったに過ぎない。
神戸にある青濤館がオリックスの選手寮だった。
406号室はイチロー。隣の405が真一の部屋だった。
イチローは真一に親切だった。寮での過ごし方、近くの店、どのコーチがうるさいか、誰と誰が派閥を作っているか、懇切丁寧にレクチャーしてくれた。
イチローはたまに真一を飲みに誘った。芸能人が隠れ家に使うような店だ。VIPのおこぼれに預かった。テレビで見るタレントと酒を飲んだ。昔話に花を咲かせた。
ふたりで飲むと、支払いは決まってイチローだった。
「いいんだっていいんだって。俺、使うところなくてさ」
顔を近づけてウインクをする。むかしから変わらない、憎めない笑顔だった。
酔っ払った真一とイチローは寮に戻り、互いの部屋に戻る。
「おやすみ」
「おやすみ」
真一は着替えずに、ベッドに横たえる。
点けっ放しの電気の下、深夜に目覚める。トイレからの戻りしな、どこからか音が聞こえる。異様な音だ。寮に幽霊が出ると聞いたことはなかったが。
まさかと思い、サンダル履きのまま、寮に隣接された室内練習場を覗く。
イチローがバットを振っていた。
春季キャンプ最終日、全選手とスタッフ関係者で決起会が行われた。
「今年も日本一になるぞー!」
無礼講の楽しい飲みだった。
仰木監督が真一に声をかけた。自分以外に三人の選手が揃った。鳴り物入りで入団したものの体がまだできていないルーキー二年目、真一と同じで社会人野球から今年入団した者、ピークを過ぎたベテラン。一軍の当落線上にいる顔ぶれだった。
「今からビールの一気飲みをやる。いちばん早く飲んだ者を開幕から入れる」
並々と注がれた大ジョッキが全員に回った。
真一はイチローから聞かされていた。
「絶対勝てよ。酒が好きな仰木さんはそういうところで選手のやる気を見るから」
真一は嫌いなクチではないが、加減を知らない下戸が勝って、実際に一軍入りした例もあると聞かされた。
「よおい、始め!」
真一は無我夢中で飲んだ。必死だった。
結果は一位だった。
「おーし、よくやった」
飲み干した真一に、仰木はにこにこしていた。
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