*本作品はフィクションであり、実在のいかなる組織・個人、また媒体とも一切関わりのないことを付記致します。
三回裏
真一が一朗と同じ中学校に通い始めて、驚いたことがある。一朗は勉強もできた。毎日野球部の練習だけでは足りず、帰宅後も父親とティーバッティングで汗を流している。勉強する時間は無さそうだが、成績は常に学年の十番以内に貼り出されていた。
一朗は涼しい顔で言う。
「プロ野球選手になれなかったら困るから、勉強だけは一応やっておけって言われてるんだ」
一朗親子が「プロ野球選手になれない」なんて考えることがあるのかと、真一には意外な気がした。ひょっとしたら、弱気になっているのかと思った。というのも、中学では先輩のいじめがあった。
一朗の才能が飛び抜けていることは、学年が上の先輩たちから見てもはっきりしていた。
嫌がらせとして、一朗が父親と築いてきたバッティングフォームや彼の生活態度を、上級生が寄ってたかって口を挟んできた。
「おまえさ、バットの先を揺らしたそんなふざけた打ち方で、全国に通用すると思うのか」
「肉しか食わないし。好き嫌いが多くちゃダメだろ」
「痩せすぎ。野菜を食わないから細いんだよ」
これを聞きつけた一朗の父親が野球部に怒鳴り込んできた。それは上級生の嫉妬心に火を注ぐようなものだった。以後も先輩たちの一朗に対する陰湿ないじめは止まらなかった。
打席に立たせてもらえない、守備にも付かせてもらえない、グラウンドを走る以外の練習が、一朗には許されなかった。
真一はそれを端から、黙って見ていた。とばっちりを受けたくなかった。それに正直なところ、一朗がつらい目に遭っていることが、内心では嫌ではなかった。
しかしいじめも長く続かなかった。練習試合とはいえ、監督が一年生の一朗をピッチャーに抜擢したところ、ノーヒットノーランを決めたからだ。打つほうも五打数五安打。ホームランを含めて、四打点だった。
先輩たちは一朗に何も言えなくなった。一朗がベンチの真ん中に座ろうとすると、彼らはさっと席を開けた。一朗は文字通り、実力で彼らを押しのけた。
三年生になった。全日本少年軟式野球大会に、一朗はピッチャーで三番、真一はサードで四番として出場した。ふたりの活躍により愛知県大会は優勝。全国大会は東京で開かれた。初めての東京に真一は胸が高鳴った。
チームを乗せたバスが、この年完成したばかりの東京ドームの前を通る。
「でけええ!」
「かっこいい!」
「野球場なのに屋根があるぜ!」
子どもたちは腹から感嘆の声をあげた。そのうちのひとりが監督におねだりする。
「監督、帰りに東京ドームで巨人の試合が観たいです!」
監督は苦笑する。
「無茶を言うな。知ってるだろ。毎日六万人のチケットがあっという間に売り切れなんだ」
「つまんねーの。なあ、一朗だって観たいだろ」
一朗は得意満面の笑みで返す。
「オレはいつかここでプレイをするから。野球場は観に行くものじゃない。試合をしに行くものだ」
子どもたちから「おおー」と声が上がる。真一は黙って聞いていた。
大会は順調に勝ち進んだが、三位で終わった。またしても小さなエラーから逆転を許し、そのままずるずると負けてしまった。優勝を目指していただけに、真一も一朗も意気消沈した。しかしそれを吹き飛ばす、大きなサプライズがあった。
東京ドームで、読売ジャイアンツの王貞治監督と会えるというのだ。
コーチの伝手の伝手を使って、シーズン中だというのに、時間を割いてくれるという。
「うそっ!」
「まじで!」
「死んでもいい!」
子どもたちは天にも昇る気持ちだった。
真一は王さんの現役時代を辛うじて覚えている。一本足打法で八六八本のホームランを打った、世界の王。日本中の誰もが王さんのことが好きだった。大きな尊敬の念を抱いていた。「王さんは実は地球人ではない。宇宙人だ」と聞かされれば、「やっぱりそうなんだ」と信じただろう。それぐらい王さんは偉大だった。
神様と会える喜びに、真一は他の子どもたちと同様、胸がざわついて仕方がなかった。
試合四時間前に、東京ドームに着く。通路を通り、子どもたちはグラウンドに足を踏み入れる。練習風景があった。大きな屋根を見上げる。思わず声が漏れる。
「やっぱでけえな」
「そうかな、小さいよ」
「でかいって」
言い合っていたところに、背番号1の男が現れた。子どもたちの背筋がぴしっと伸びる。
「お忙しいところ申し訳ありません」
「やあ、どうもどうも」
コーチと王さんが握手をする。素直に羨ましかった。
王さんが子どもたちを見る。
「全国大会で三位だったんだって」
王さんが話しかけても、子どもたちは緊張から答えられない。
真一は王さんと話してみたかった。どうやったらあこがれのプロ野球選手になれるか、ホームランを打てるためにはどうしたらいいかなど、少年らしい質問で気を引いてみたかった。
しかし神様を前にすると、何も言えなかった。
勇気がない自分が悔しかった。
横を見ると、一朗ももじもじしている。
真一は一朗を出し抜きたかった。
思い切って声を上げた。
「王さん、内之田真一と言います! 僕は将来プロ野球選手になります! 僕の球を見て下さい!」
大人たちが嗜める中、王さんはにこやかに言った。
「そうか、じゃあちょっと見せてもらおうかな」
「はい! ありがとうございます!」
真一はカゴの中から硬球をひとつ取ると、マウンドへと足早に向かった。
「バ、バカ。よしなさい!」
「選手のみなさんに迷惑だぞ」
監督やコーチは止めるが、真一はどうにでもなれという気持ちだった。
「まあ、いいから」
王さんの言葉に、監督やコーチは黙った。
少年たちは固唾を飲んで見ていた。一朗の喉がごくりと上下に揺れた。
真一が振りかぶって、投げた。
勢いのあるボールがキャッチャーミットへと吸い込まれていった。
「ストライク!」
ユニフォームを着た選手や、裏方から声が上がった。
真一はマウンドで、仁王立ちした。
王さんが一朗を見る。
「いい球だ」
白い歯を零す。
「ありがとうございました!」
真一はキャップを取って、深々と頭を下げた。王さんのほうに向かう。
真一は強く握手をした。
「いいなあ」
「すげえ」
少年たちから感嘆と称賛の声が上がる。
一朗はそれを眺めていた。
その後、少年たち全員と王さんで記念撮影をした。
真一は誇らしげな顔をしていた。一朗の顔を盗み見ると、うまく笑えていなかった。
東京に帰るバスの中で、真一は他の少年たちから英雄のように囃し立てられた。
一朗は椅子の背もたれに身を預けて、彼らの賑やかな声を聞いていた。
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