天才・イチローに、少年時代に出会ってしまった自分。

【第1回】
体が大きく野球センスもあった内之田真一は、自分の輝ける将来を疑ったことはなかった。
そのスポーツ少年団に、一朗がやってくるまでは。
天才とは何か。イチロー引退の報を受け、樋口毅宏が緊急書き下ろし!

*本作品はフィクションであり、実在のいかなる組織・個人、また媒体とも一切関わりのないことを付記致します。

 イチロー引退—。

 内之田真一が自宅でそのニュースを聞いた瞬間、心臓が射抜かれたように感じた。

 イチローは昨年5月、会長付特別補佐の契約を結び、選手として試合は出場しなかった。 それでも数々の奇跡を起こしてきた男だから、また活躍してくれるだろうと思っていただけに、真一のショックは大きかった。

 誤報ではないかと他のニュースサイトを見たり、テレビをつけてザッピングをしたりしたが、確実な情報のようだった。ネット民もアナウンサーも識者も興奮を隠さなかった。野球というスポーツのジャンルを超えて、日本のみならず世界でその名を刻んだ、現代最高の偉人が第一線から退いたのだ。ひとつの時代の終焉であり、歴史の転換期に立ち会っていると人々は感じているのだろう。

 当分の間、ワイドショーのみならず、あらゆるメディアやネットがイチローの引退を取り沙汰し、「どれだけ素晴らしい選手だったか」、「自分とイチロー」などを、滔々と語るに違いない。おそらくは世界中で。

 真一はテレビを消して、長い時間呆然としていた。黒い画面に平凡な男が映っていた。痛む膝を起こすと、箪笥の引き戸を開けて、古いグローブを取り出す。使い込み、手に馴染んだそれを嵌めて、真一は二、三回、ポケットの部分に右の拳を叩き込んだ。久しく触れていなかったため、湿った音しか鳴らなかった。

 それでも真一は何度か繰り返した。まるでそうすれば遠い過去へと戻れるかのように。


一回表

 鮮やかな快音が青い空に吸い込まれていく。志水小学校のグラウンド後方に、内之田真一の打球が遠くへと飛んで行った。

「シンちゃんすげえ」

「後ろで守っていても、シンちゃんが打つと、ずーっと頭の上を越えていくんだもんなあ」

 真一と同じ、小学三年生の子どもたちの驚嘆の声に、彼は得意げだった。腕組みをした監督がぽつりと漏らす。

「内之田は体も大きいし、上の学年に入れてもいいかもな」

「うわー、やっぱシンちゃんすげえ」

「四年生のグループに入るの?」

「すげえすげえ」

 同級生が囃し立てる。真一は悪い気はしなかった。

 愛知県名古屋市の北の外れにある、豊山町スポーツ少年団は日曜日、朝九時から正午まで、志水小学校のだだっ広いグラウンドで、バックネットから右回りに六、五、四、三年生と分かれて活動していた。

 内之田真一は早い段階から少年団の話題の的になり、監督とコーチは彼を上の学年に入れて育成することを決めた。真一は大人から認められて鼻高々だった。

 午後の空は雲ひとつなく、どこまでも明るかった。その少年がやってくるまでは。


「すまんすまん、道が混んでいてな」

 中年の男が遅れてやってきた。きょうからコーチがひとり増えると聞いていた。後ろにはその息子らしき男の子が付いてきた。ぶかぶかのユニフォームに、大きなキャプが印象的だった。挨拶もそこそこに、男の子は待ちきれないとばかりに、バッターボックスに立とうとした。

「まずはグラウンドを何周か走ってきなさい」

 監督の声を、少年は聞こうとしない。バットを掴んで、素振りをしようとしたところを制された。

「一朗、言われた通りにしなさい」

 父親から一朗と呼ばれた少年は、不服な顔を見せたが、バットを放り投げると、グラウンドを走り出した。

「なんだあいつ」

「いきなり来てさ」

 真一も同じように感じたが、子分たちが代弁していたので口にすることは控えた。

 一朗が戻ってくる。足は速かった。これ以上我慢できないとばかりに、バットを握ると、素振りを始める。小さい割には速い振りだった。打席に立とうとすると、他の子どもたちから声が飛んだ。

「待てよ」

「順番があるんだぞ」

 一朗は父親のほうを見る。監督が声を上げた。

「構わん。打たせてやれ」

 子どもたちは不満だったが、監督が言ったので黙った。

 みんなが見守る中、一朗が打席に立つ。右打者だった。

 マウンドの手前からコーチが球を放る。一球目、一朗は空振りした。二球目はようやく当てたが、ぼてぼてのゴロだった。

「よく球を見て」

 コーチは速度を落として、弓なりの球を投げた。

 一朗は思い切り振ったが空振りして、尻もちをついた。

 子どもたちから失笑の声が上がる。真一も鼻で笑った。

「替われ。もういいだろ」

 少年のひとりから言われても、一朗はバッターボックスから退こうとはしない。

 一朗は真剣なまなざしだが、真一はあることに気付いた。

「おい、おまえ。バットの握り方が違うぞ」

 みんなが一朗の手に注目する。よく見ると、右打者なのにバットを握る右手が下に、左手が上になっていた。ひとりが大きな声で囃し立てた。

「おまえそれじゃ打てるわけねーだろ!」

 子どもたちが無邪気に笑った。


 練習を終えた少年たちは、グラウンドの端の緑の芝生で、めいめいに弁当を広げた。真一は海苔が敷き詰められた弁当を周囲に隠すように口に掻き込んだ。

 子分のひとりが愉快そうに言う。

「きょう来たあのチビ、どこ行った」

「帰っただろ。父ちゃんに連れられて」

「サルに似ていたよな」

「似てた」

「親ザル子ザル」

「ウキキッ」

 ゲラゲラと笑い声が上がる。

「足は速かったけど、打てないし守備もヘタっぴだし」

「なあ」

「だけどすげえ高そうなグローブしてなかった?」

「してた」

「ああいうの何て言うんだっけ」

「ブタに真珠!」

「サルに高いグローブ!」

 子どもたちからいっそう大きな笑い声が上がる。

「それにあのバッティングフォーム!」

「あれで打てるわけねーじゃん」

 真一が輪の中に声を上げる。

「もういいだろ。そんなに言わなくても」

「だってさー」

「シンちゃん優しいな」

「うん、シンちゃん優しい」

「シンちゃん来週から四年生のグループ入るの?」

「さあな」

 真一は誰かが自分のほうを見るたび、中身が見えないように、弁当箱の角度を少し上げた。

「シンちゃんなら絶対四年生のグループでも活躍するよな」

「するする。球も速いし、ピッチャーやるの?」

「シンちゃんの球、絶対当たらないよ!」

 真一は何も言わない。勝手に回りが騒ぐのを聞いていた。

 そのまま少年野球のチームで遊んだ後、六畳一間のアパートに帰宅した。しばらく寝転がって天井を眺めていたが、安普請の扉が開く音に、反射的に体を起こした。彼の顔に光が差す。日曜日なので母親はいつもより早くパートから戻ってきた。

「真一、おかえり。野球楽しかった?」

「うん。きょうもたくさん打ったよ。来週から上の学年だって」

「そう、凄いねえ」

 申し訳程度の台所に、空になった弁当箱が水に漬けてある。母親はそれを見た。すかさず真一は言う。

「美味しかったよ」

「そう、良かった。お昼に食べたきりならお腹が減ってるでしょ。きょうはから揚げをもらってきたよ」

「やった!」

 母親が夕食の準備をする。小さなちゃぶ台で食事の間、真一はその日あったことを話した。大きな外野フライをキャッチしたことや、盗塁を二回決めたことなど、身振り手振りを加えて伝えた。母親は目を細めて、嬉しそうに聞いていた。

「お母さんも観たいけど、行けなくてごめんね」

「練習なのに親と来る奴なんていないよ」

 七時になる。テレビで中日×巨人戦の中継が始まった。試合開始から一時間が経過していた。スコアボードが映る。三回で中日が二対〇で勝っている。

「きょうピッチャー誰かな。牛島かな。やっぱり牛島だ。すげえな。きょうも巨人に勝つかな」

「王さんも大変だね。選手のときのようにはいかないもんだね」

「原が打たないのが悪いんだよ」

 母親は微笑む。真一はテレビにかぶりつく。目が悪くなるよと注意されても、名古屋球場で戦う選手たちの姿に吸い込まれてしまう。

「母ちゃん、いつか名古屋球場行こうね」

「そうだね、行こうね」

「オレがドラゴンズに入って、母ちゃんを招待するから」

「ありがとう。楽しみだね」

 母親の表情は明るい。いつまでもその顔を見ていたいが、打球と歓声がして、ブラウン管のほうを向き直す。田尾が江川からタイムリーを打った。真一はわがことのように喜んだ。


 一回裏

「あいつまた来たのか」

 少年のうちのひとりが呟いた。一週間後、志水小学校のグラウンドに、一朗は父親と一緒に現れた。今度は時間通りに、他の少年たちと練習に参加した。

 真一は四年生のグループに加わった。体が大きいため、一学年上の子どもたちの中に交じっても見劣りしなかった。練習にも付いていけた。真一が投げる速球は、四年生たちを空振りさせた。得意になっているところを、視界の隅に、先週遅れてやってきた、サルに似た少年を見つけた。けれども真一は気に留めなかった。

 しかし真一だけでなく、スポーツ少年団の少年全員が、一朗に向けて熱い視線を注ぐようになるのは、練習開始から三〇分後のことだった。

 サイズが合わないヘルメットを被って、一朗は左打席に立った。

「おい、きょうはバットの持ち方を間違えるなよ」

 からかう声に、一朗は見向きもしなかった。

 一球目から快音がグラウンドに響いた。

 グラウンドにいた誰もが、快音の主を振り返った。そこには小さな少年がバットを振る姿があった。

 打球はどれも速かった。センターを守る子どもの遙か上を超えるなど、同じ子どもが捕球できるものではなかった。先ほどまで一朗を小馬鹿にしていた子どもたちは、空高く舞う打球を見上げながら、口を開けたまま、驚きの声も出なかった。

 守備も見事だったが、何より凄かったのは、ピッチングだった。小さな体からは想像もつかない速球が次から次へと繰り出された。「ボールを捕る手が痛い」と子どもが音を上げたので、コーチが代わった。慌てたのは大人たちだった。一朗の父親だけが、平静だった。

「五年生、ちょっと来い」

 一朗とは三〇センチ以上の差がある少年が打席に立った。大人と変わらない体格で、バットを振るとブンブンと迫力があった。

 しかし、一朗が投げる球はかすりもしない。前年に小学生の部の愛知県大会でベスト4まで牽引した、ピッチャーで四番の少年をきりきり舞いさせた。

「おまえ、変化球ばっかずるいぞ!」

 泣き声にも似た声に、イチローはストレートで応えた。

 唸りを上げるボールは、三度キャッチャーミットに吸い込まれた。

 マウンドの一朗は当然のような顔をしていた。

 それを真一は、グラウンドの隅で見ていた。崖の下から、見上げるような気持ちだった。子分たちが手を挙げて、大きな声で喝采を叫んでいた。

 一朗が再びやってきて小一時間。猿山の頂上の座はあっさりと替わった。

—第2回「”俺はプロ野球選手になるよ”一朗はあっさり宣言した。」は3月30日に公開予定です。お楽しみに!

この連載について

小説・イチローになりたかった男

樋口毅宏

イチロー引退の報を受け、小説家・樋口毅宏が緊急書き下ろし! 体が大きく野球センスもあった内之田真一は、自分の輝ける将来を疑ったことはなかった。そのスポーツ少年団に、一朗がやってくるまでは。 天才とは何かを問う物語。

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コメント

byyriica 【読んだ】 約2ヶ月前 replyretweetfavorite

honya_arai ひぐぴー今Twitterやってないので伝えとく!↓ 現在第2回まで 8ヶ月前 replyretweetfavorite

azu_chabi |小説・イチローになりたかった男|樋口毅宏|cakes(ケイクス) 全9回か 延長戦ありか 2回が待ちきれない! #樋口毅宏 https://t.co/rXfRKGSkUk 8ヶ月前 replyretweetfavorite