さえのぼる月にかかれる浮雲の末ふきはらへ四方の秋風
豊臣秀吉・徳川家康と共に三英傑と称される織田信長にこんな秋の歌があることをご存じだろうか。
「冴え昇る秋の月」を仰ぎつつ、天下人へと昇る己の状況とも重ね合わせていたのかもしれない。「浮雲」の「浮き」には「憂き」も掛けられている。「憂き」ものを吹き払ってくれる秋の風への思い。古典の素養が垣間見られる一首だ。
後世のドラマや映画、小説などでは信長の荒々しい側面が描かれることが多い。けれども実は、 障害を持った男性が乞食をしていた際には地域の人々を呼び、木綿二十反を与えたといったエピソードも知られている。
「これを金に換え、小屋を建て、彼が飢えてしまわないように毎年、米や麦を施してやってくれ」と語ることのできる武将だった。『信長公記』の一五七五(天正三)年に記された逸話だ。
検地や楽市楽座などの政策を用いて、新しい社会体制づくりにも貢献した信長。商業の発展を妨げていた「関税」の撤廃。さらには険しい山道への舗装、川には橋をかけてインフラを整備したことも信長の功績として語り継がれる。
本能寺の真実は歌に詠まれている!?
一五八二(天正十)年、六月二日未明におきた本能寺の変の数日前、信長は五月二十七日には 連歌の会を催し、「ときは今あめが下知る五月かな」と詠んでいる。
本能寺には信長が詠んだと伝わる次の和歌も残る。「うらみつる風をしつめてはせを葉の露を心の玉みかくらん」——「はせを葉」は芭蕉の葉だ。「恨みなどの悪しき慣習がはびこるような乱れた世の風を鎮めて、芭蕉の葉の露が流れ落ちてしまうことのないように、私は自らの心を磨いていく」という歌意だ。根底には平和な世の到来を願う気持ちが込められている。
宣教師からもたらされた黒人にも人種差別をすることなく、弥助の名をつけ、家臣として迎え入れた信長。豊臣秀吉が、子の生まれない正室につらく当たったと知った時には手紙を送り、正室を励ました。庶民と共に踊り、庶民の汗を拭いてあげたこともあったという。
そんな信長が詠み残した和歌は、まだ発掘途中である。今後も調査を続けていけば、眠っていた思いがけない宝にめぐりあうことができるかもしれない。
織田信長(一五三四~一五八二)……戦国時代から安土桃山時代の武将・大名。桶狭間の戦いで今川義元を破り、尾張を平定。後に京都に上り比叡山を焼き討ち、将軍足利義昭を追放した。さらに、武田勝頼を破って武田氏を滅亡に追い込み、天下統一を目指した。